2019年7月


●格差-2   2019.7.17
→昨日の続き。しかし中世の貴族に仕えた奴隷が、貴族に対して格差を実感していたかというとそうではないだろう。もともと別世界の人間だと思っているからだ。ところがそこに平等という意識が芽生えてくると、自分が相対的に、恵まれていない、不幸である、酷使されている、というようなことを感じはじめ、そのことが「格差をなくせ!」「差別があってはいけない!」という考え方になってくるのだろう。福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言ったのは、つい最近のことである。それまでは(今でも)格差のある社会は脈々と続いていたのだ。→明日へ続く。


●格差-1   2019.7.16
アメリカ人には日本人の倍以上の格差がある。アメリカが突出して格差が大きいと思われがちだが、世界各国の所得格差を表にしてみると、そんなことはないことが分かる。アメリカは世界で占める資産割合が突出しているために所得格差がクローズアップされるのだろう。そしてクローズアップされるのはあくまでも所得の格差だ。では中国はどうだろうか?国の所得格差順リストでは中ほどにあってそれほど目立たない。しかし共産党幹部とウイグル人では格段の格差があるはずだ。それは所得ではなく人権だ。→明日へ続く。


●スマホが売れない   2019.7.15
スマホが売れないそうだ。平成30年の「情報通信白書」によれば、個人のスマートフォン保有率は84%なのだから当たり前のことだ。残りの16%はガラケーのほうがいい、またはガラケー+タブレット派なのだろう。つまり84%という数字は実質上ほぼ100%行き渡った、ということなのだろう。一般的なウェブサイトのスマホでのアクセスの割合は2010年〜2015年頃に急激に増え続け「このままではパソコンでアクセスする人がいなくなるのでは?」と思ったくらいであったが、これが2016年ごろにピタッと伸びが止まり、以降現在まで「スマホ6:パソコン3:タブレット1」の割合でずうっと変わらず推移している。つまり2016年ごろには既に必要な人のほぼ全てにスマホが行き渡っていて、後は約4年サイクルの買い替え需要のみに頼るしかない。かつてのように売れないのはあったり前のハナシである。買い替え需要も以前は2年ぐらいだったものが今は4年なのだそうだ。既にケータイショップも斜陽産業ということのようだ。


●手順   2019.7.14
Illustratorの操作手順を覚える事でイラレ職人になれると思い込んでいる人がいる。しかし操作手順を覚えただけでは職人にはなれない。旋盤の操作手順を覚えただけでは金型職人になれないのと同じだ。何を作りたいのか?そのためにはどうしたいいのか?という目的意識がない限りは職人にはなれない。操作手順だけであれば1週間もあれば覚えられる。しかし作りたいものを実際に作れるようになるまでは何年もの修行が必要だ。いわゆるアナログの職人であれば何年もの修行が必要であるということを人は感覚的に理解できる。ところがデジタルの世界になると、手順さえ覚えてしまえば何でも作れる、と思ってしまうらしい。じゃオマエやってみろ!と言われても、絶対にやることのない立場にいる人たちが、手順さえ覚えてしまえば何でも作れると思っているようだ。


●絵-2   2019.7.13
→昨日の続き。ところが絵画というものは「自由」という意識が描く方にも見る方にも必要以上に強い。だから写真には遠く及ばない、明らかにデッサンが狂っている未完成な作品が世の中に氾濫している。そしてその作品を面と向かって「ヘタクソ!」と言ったときには、その言った人が悪者になってしまう。そうして多くの作品はデッサンが狂ったまま仕上げにかかっている。建築物に例えれば基礎がユガんでヒズんだまま、壁を塗って、家具を配置しているようなものだ。そんな家には住めないのだが、絵画は「絵」だから許されるようだ。だから「絵に描いた餅」なんていう比喩をされることになる。


●絵-1   2019.7.12
例えば音楽では、譜面通りに一箇所も間違えることがなく演奏ができたときに、「制覇でできた」「完成した」「クリアした」などと勘違いをする人もいる。しかし譜面通りに一箇所も間違えることがなく演奏ができたとしてもコンクールで優勝はできない。そこから先、もっともっと深く考え、表現力を高めていかなければ評価はされないのだ。これが譜面というものが存在しない絵画ではどうだろうか。写生や具象であれば、譜面の代わりになるものは、とりあえずは写真だろう。とりあえずは写真のように描けた時点で、最初のステップがクリアできたことになる。「いやいや写真のように描くなんて、とてもできないよ。」という人がほとんどだろう。しかしそれは「いやいや譜面通りに弾くなんて、とてもできないよ。」と言っているのと同じだ。→明日へ続く。


●全員不合格   2019.7.11
人気コピーライター、田中泰延氏のツイートで「大学生に作文をメール提出という課題を出したのだが、ただの一人も『田中泰延様 〇〇大学の〇〇です。講評お願いいたします。』という当たり前のメールが来ずにただ、誰のものかわからない作文だけが送られてくる。」とのこと。続けて「世の中ここまで来たか。全員不合格です。」と書いている。まず、今どきの大学生はSNSでしかコミュニケーションしないのでメールは使わない。SNSは「〇〇大学の〇〇です。」などと書く必要がないから書かないのだ。世の中を嘆く前に「メールでは『田中泰延様 〇〇大学の〇〇です。講評お願いいたします。』と書くのですよ。」と教えてあげてからメール提出の課題を出すべきだろ。というか今どきの大学の評価で「全員不合格」なんてことはできないはずなのだが。


●パソコンだけは死んでもやらない(2)   2019.7.10
→昨日の続き。パソコンやネットが出来ないまま、残りの余生を送るのは厳しい。かと言って今さら誰かにパソコンを教えてもらうという行動は沽券に関わる。そうだケータイだ!ケータイならパソコンほど難しくなさそうだし、ネットも使える。ということでパソコンは完全にスルーしてケータイに活路を見出すオッサンが増え始めた。彼らの概念はパソコンは全否定でメールは一切やらない。基本的にアナログ全開である。しかしショートメールとスマホでのLINEは出来る。というヘンな立ち位置に落ち着いてしまっているようでもある。たぶんこの立ち位置のままで一生を終えるのだろう。


●パソコンだけは死んでもやらない(1)   2019.7.09
パソコンだけは死んでもやらない!と決めて生きてきた人がいる。2000年以前は、パソコンを使うのは科学者やNASAの人であり、一般市民が使うことはあり得ないことだった。しかし身の回りにパソコンを使う人間が徐々に増え始め、パソコンだけは死んでもやらない!と言っている人の肩身が狭くなってきた。そして「やっぱりパソコンをやろう!」と決断するチャンスを逸したまま時は流れ、今さら「やっぱりパソコンをやろう!」とは言えなくなった。しかし今のままでは明らかに時代に置いていかれる!ということも覚悟せざるを得なくなってしまった。→明日へ続く。


●プレゼンテーション   2019.7.08
入札のときは必ずプレゼンテーションを行う。入社試験の面接も一種のプレゼンテーションである。商品の広告もプレゼンテーションだ。プレゼンテーションを行わなければ基本的に誰も振り向いてくれないし、待っているだけでは誰も訪れてくれない。プレゼンテーションしなければ友達もできない。だから人は一生のうちの多くの時間をプレゼンテーションに割くようになってしまっている。しかしプレゼンテーションをつずけることはラクではないしカンタンでも無い。だから「もうプレゼンテーションをするのを止めよう!」と決めてしまった人たちもいる。「引きこもり」と呼ばれる人たちだ。


●センス   2019.7.07
「私はセンスがないから…」と言う人がデザインをすると、本当にセンスのないデザインになる。ではその人が本当にセンスが無いのかといえばそうではない。美しいモノを見れば美しいと感じるはずだし、汚いものはキタナいと感じるはずである。ところが自分で何かを作るときに、その作ったモノを美しくしよう!という努力をしない。美しいかどうかを自ら確認するまえに「これでいいや!」と勝手に判断して「完成」したことにしてしまうから、客観的に見てセンスが無いものになってしまうのである。美しくしよう!という努力をするか否かが。センスの有無になるだけのことだ。


●惑わされてはいけない。   2019.7.06
どんな商品であっても、基本的に消費者の傾向は2種類に分けられる。①本物志向でこだわりがある消費者。②安さと流行を優先する消費者。そしてこの①と②では、商品を作るときのアプローチが全く異なる。まずは①の消費者が商品を購入して市場を広げていく。広がった市場に②の消費者が入っていってさらに市場を広げる。①をターゲットにして商品を作っていた会社は、商品に対する考え方の方向転換を余儀なくされるが、①が染み付いているので②に徹しきれないで中途半端な商品を作るようになる。結果として商品が売れなくなる。②の市場がどんなに拡大しても、①のある一定量の市場は確実に残っているのだが。業界内で「究極の神の寸法」と言われた「黒電話のハンドセット」もこんな形で市場は僅かに残っている。


●ギャンブル   2019.7.05
高度成長期の人の多くは「他人よりも少しでも偉くなりたい!有名になりたい!金持ちになりたい!」と思っていた。それは基本的に自分の周囲のほんの一部しか見えていなかったからだ。現在のようなネット社会になると、最初から自分の立ち位置やランクが俯瞰的に見ることができるようになっている。だから現在の人の多くは「他人とできるだけ同じでありたい!普通でいたい!安定していたい!」と思っている。つまり生まれた時からギャンブルとは無縁なのだ。そんな人たちに公営ギャンブルやパチスロや宝くじを売り込もうったって無理なハナシである。


●教養   2019.7.04
高い教養のある人は、同じく教養のある人、又はある程度の教養のある人、又はある程度の学力のある学生、などとしか基本的には付き合ってはいない。Facebookの友だちも、そういった人が中心だ。ところが世の中には、あまり教養のない人のほうが圧倒的に多い。あまり教養のない人の書く文章は基本的に「何を言っているのか」「何が言いたいのか」が分からない。しかし多くのあまり教養のない人によって世の中は成り立っている。高い教養のある人は、あまり教養のない人のことを、「見下してはいけない」「平等に接しなくてはいけない」と思っていることも確かだ。しかし何かの拍子に「バカ!」というのが態度や顔に出てしまうこともある。だから高い教養のある人ほど、積極的にあまり教養のない人と本気で付き合うようにしなければ、社会全体の底上げはできないのではないか。


●AIは空気が読めるか(2)   2019.7.03
→昨日の続き。またディープラーニングのほうも、会話の音声波形から「身体のどこかの調子が悪いので早く喋り終えたい」「他の人に喋らせたくないので、なるべく長く話したい」「突っ込まれたり反論されたりすることを恐れながら話している」などということが分からないといけないだろう。ただしAIなので人間よりも早く経験値を上げることは可能なはずだ。ところがインプットデバイスの精度が悪いと、ディープラーニングもディープではなくなり、データの量だけは多いが内容が浅いシャローラーニングになってしまうのではないか。高性能な頭脳を活かすためには、高性能なインプットデバイスが必要になることだろう。そうすれば、いずれ空気の読めるAIも可能になるかもしれない。しかし、AIは空気が読めたところでどうする?という疑問も残る。AIだからクールであってほしいものだ。


●AIは空気が読めるか(1)   2019.7.02
空気を読める人間と空気の読めない人間がいる。ではAIは空気を読むことができるだろうか?人間の場合、空気を読むには、そこにいる人たちの表情や会話の内容、その会場の静けさや発言者の話す内容、空気を読まない行為をした場合のその場の人々の予測される反応、などなど実に複雑で多角的な視野が必要とされることだろう。それはビッグデータだけでは対応できないようにも思える。情報をより高精度に収集するためのデバイスが必要だろう。人の顔の表情筋の動きを正確に察知して記録できるデバイス。部屋の中で複数の人間の極めて小音量な会話の内容を正確に記録できるデバイス。室温、風向きや風速、匂いなども正確に収集できるデバイス。などなどである。→明日へ続く。


●無尽蔵に増える   2019.7.01
Adobe Lightboxを使っていて思った。ほぼほぼ無尽蔵に写真がアップできる。もちろんDropboxも感覚的には同じようなものでデータ保存期間を無制限に設定できる。毎日のようにクラウドに画像データがアップされていく。そしてアップしているのは人間だ。人間だからいつかは死ぬ。死ぬ前にクラウド上のデータを全て消去するという人は稀なはずだ。従ってクラウド上のデータは膨張宇宙論のように無尽蔵に増え続けることになる。これは一体いつ誰が何とかしてくれるのだろうか。とはいえ一個人がこれだけの動画を含めたデータを残すようになれば、墓は不要になり、葬式は簡素化されていくことだろう。墓が無尽蔵に増えるという問題に比べれば、クラウド上のデータが無尽蔵に増えるという問題は小さい。



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