2018年1月

●センス(2)   2018.1.31
→昨日の続き。従って当初はデザインをグラフィックデザイナーがイラレで作り、プログラマーがコーディングを行うという分業化が行われていた。ところがそれでは人件費と制作時間が2倍になってしまった。そしてCMSが登場して、デザインのスキルがなくても、またHTMLを理解していなくても、テンプレートに沿ってデザインを進めていくことで、素人でもそれなりのデザインができるようになってきた。従って「ウェブデザイナーを目指すという若者」は、CMSの使い方さえ分かれば、デザインとプログラミングのスキルが無くてもウェブデザイナーになれるという時代になった。とはいえ、そこにはデザイナーとしてのセンスは求められる。センスというものは持って生まれたものであり、いくら勉強したところで万人が身につけられるものではない。「センスが無い!」と3回言われたら、デザイナーという仕事は辞めたほうが良いだろう。

●センス(1)   2018.1.30
学校を卒業してウェブデザイナーを目指すという若者がいる。しかしこの道筋が確立したのは最近のことだ。ウェブデザイナーという仕事(当初はホームページデザイナーと呼ばれていた)自体が認知されるようになったのは、恐らく2000年を過ぎてからであろう。そもそもがホームページを作るためにはHTMLというプログラム言語を学ばなければいけない。そしてHTMLが書ければホームページを作ることができると多くの人が思っていた。しかしHTMLや画像加工ができたところでクライアントに提供できるようなホームページを作ることはできなかった。そこには「デザイン」というスキルとセンスが要求されたからである。これはプログラム言語とは全く異なるスキルであり、専門的に「デザイン」を勉強してスキルを身につけた人間でなければプロのデザインはできないということがわかってきた。プログラマーがデザインしたホームページは「機械的で味も素っ気もないもの」か「ごちゃごちゃと画像や表が不規則にてんこ盛り」のいずれかの傾向になっていた。→明日へ続く。

●デジタル一眼レフ   2018.1.29
どこの観光地に行っても必ず見かけるのが「立派なレンズをつけた一眼レフを持ったジイさん」であろう。10年前であればフィルム式の一眼レフを持ったジイさんもかなりの割り合いで見かけたが、さすがに最近では見かけなくなった。フィルム式ではフィルム代と現像代とプリント代がバカにならない金額になってしまうわけだ。しかしそのことをジイさんが分かるまでに20年を要したことになる(カシオが1995年に液晶搭載の製品を発売してデジカメが市民権を得るほど普及したとされている)。デジタルでは好きな写真が取り放題で無尽蔵の撮影が可能になったわけだ。しかしだからといって、花の写真を連写モードで撮る必要はなかろうて。

●品数(2)   2018.1.28
→昨日の続き。ファミレスでメニューを選ぶとき「洋食、和食、中華のうちどれにするか」→「炭水化物が良いか否か」→「予算の上限」→「カロリーと塩分」というように理論立てて絞り込んでいけば簡単に決めることができる。しかし、さんざん迷った挙句にヘンなものを注文してしまう人は、この理論立てた絞り込みができずに、思考がディレクトリの上に行ったり下に行ったり横に行ったりしているから適切なゴールを見つけられなくなる。まあ、そうやって迷わせて彷徨わせて滞在時間を長くして血迷ってヘンなものを買わせるために敢えて品数を多くしているショップもないことはない。

●品数(1)   2018.1.27
品数は多ければ多いほど良いというものではない。人間はものを選ぶときに、集中力をもって冷静に選ぶことができるのは、せいぜい7種類ぐらいと言われてる。よく、ファミレスでメニューを選ぶときに、さんざん迷った挙句にヘンなものを注文してしまう人がいる。これはメニューの中の選択肢が多すぎるために起こる一種のパニックだ。まずは、こちらからオススメを何点か提示して、その中から選ばせるというほうが「買い!」に繋がる可能性が高いようだ。ネットの場合、特に無尽蔵に品数を載せることができるので注意したほうが良い。→明日へ続く。

●何かが便利になると何かが不自由になる   2018.1.26
ある画家の有名な作品をGoogleで調べようとした。制作された年月やどこの美術館に所蔵してあるのかを確認したかったのだ。ところがこいつがなかなか見つからない。調べる前は「そんなもん、すぐに分かるだろ」ぐらいの気分でいたのだが。見つからない理由の一つがネット通販である。世界の名画の複製画やポスターを大量に販売しているのだ。そしてもう一つがpinterestだ。世界中のユーザーが画家の名前を使って、例えば「ピカソ美術館」のような名前のマイページを作って公開しているのだ。なので本当の美術館がなかなか出てこない。画像検索にしても然りである。pinterestは自分で作品をアップする分には楽しいのだが。何かが便利になると何かが不自由になるのはインターネットの宿命であるようだ。

●アイスを食べたら差し歯が折れた   2018.1.25
実際に歯科医から聞いた話。「アイスを食べたら差し歯が折れた」と言う患者さんがいたとのこと。もちろんアイスクリームで折れるような粗悪な差し歯などというものはありえない。長年の経年変化による劣化で、たまたまアイスを食っているときに寿命がきたのだろう。最近のマスコミが取り上げている事件には、この「アイスを食べたら差し歯が折れた」的なモノが多いように思える。事件は、そこに至るまでの長年の経緯ややりとりがあって起こるものである。それを最後に起こった現象だけを捉えて、芸能人や自称コメンテーターが眉に皺を寄せながら、良いの悪いのと議論する茶番のようなテレビ番組。「アイスを食べただけで折れるような差し歯を提供するような、歯科医と歯科技工士の業界全体の問題なのではないかと思う。」とかいうような。

●ヒップホップ禁止令   2018.1.24
中国では昨年末ごろから、人気ラップ歌手の男性の曲に「白い粉末を並べておく」「恥知らずのくそ女」など薬物使用や女性蔑視の表現があるとして、インターネット上で問題となった。そしてヒップホップ文化は低俗だとして、ラップ歌手らをテレビやラジオ番組に出演させない方針を示した。中国メディアが伝えたとのこと。当然のことながら賛否両論あることだろう。そして当然のことながら高齢者はこの方針に賛同し、若者は反発し、親中思想の人は賛同し、反中思想の人は反対することだろう。まぁ、なるようにしかならないことだし、どっちでもいいことだが、どうなったとしてもその結果は日本としても大いに参考にすべきことだろう。

●真実を写す   2018.1.23
人間の目は常に動画を見ている。フレームレートは20〜30fpsと言われている。普通の人が1日に起きている時間が16時間だとすれば1分間に1,200コマ、1時間に72,000コマ、16時間では1,152,000コマの静止画像を見ていることになる。写真はどうか?1枚の撮影に要する時間が仮に60分の1秒とすると、1日の1,152,000コマの静止画像のさらに3倍の3,456,000分の1ということになる。氷山の一角どころではない超薄氷の一瞬を切り取っただけの画像ということになる。そんな一瞬だけで語れることは少ないはずだ。そもそもが真実を写すのが「写真」という概念が浸透し過ぎているのだろう。写真が写せる「真実」は思っているほど多くはないのだ。

●食べ物の名前   2018.1.22
イモ、豆、かゆ、稲荷、揚げ、これらの食べ物に共通するものは?答えは、最初に「お」を付けて、最後に「さん」を付けて呼ぶという風習があるということ。地方によっては「うどん」「納豆」も該当するらしい。いずれにしても主食となるものに敬意を払い、有難いという心と親しみを込めて、伝統的にそう呼んでいたのであろう。しかしこれだけ大量の食べ物を廃棄している時代に「何を今さら」感は拭えない、などと言ったら怒られるかもしれない。

●動物の色   2018.1.21
鼠、駱駝、鶯、狐、玉虫、鮭、孔雀、珊瑚、象、これらの動物に共通するものは?答えは「色」である。鼠、駱駝、鶯、狐、玉虫、は「色」を付け加えれば色の名前になる。鮭はサーモンピンク、孔雀はピーコックグリーン、珊瑚はコーラルピンク、象は象牙色となる。こうしてみるとこれだけ多くの種類の動物が存在する中で、色の名前に使われているものは意外に少ない。しかし日本の伝統色の中には、鈍色(にびいろ)= 濃い鼠色、利休鼠(りきゅうねず)=緑色がかった灰色、など鼠色のバリエーションは多いようだ。グレーゾーンが好きな日本人ならではであろう。

●あれもこれも   2018.1.20
居酒屋であれもこれもとつまみをオーダーした結果、食いきれなくなって余ってしまう。旅行にあれもこれもと色々なものを持っていった結果、そのうちのいくつかを旅先に置き忘れてきてしまった。デザインをするときにあれもこれもと色々な要素を取り入れた結果、お祭りみたいな品の無いものになってしまった。お土産屋さんであれもこれもと買い込んだ結果、帰りの電車に乗り遅れてしまった。新居に引っ越したついでにあれもこれもと家電製品を買い込んだ結果、そのうちのいくつかは未だに使ったことがない。人間が一人で維持管理できるものの数は決まっている。そしてその数は意外と少ないことを知っておいたほうが良い。

●諦めない   2018.1.19
仕事のできる人とできない人、勉強のできる人とできない人、の違いは頭の良し悪しではない。諦めるのが早いかどうかであろう。できない人は諦めが早い。諦めるときには諦める理由をいろいろと考えるので頭はよくなる。しかしそのことで自分を「やらない」方向に誘導するので頭は良くなるが仕事はできなくなる。逆に諦める理由を考えない人、または考えることができない人は、真っ直ぐに問題に立ち向かうので、最終的にその問題を解決できないにしろ、解決するために学んだことは貴重なスキルになり、気がついたときには「できる人」になっている。目の前のハードルの高さを測るより、ハードルを超えることだけを考え、ハードルにしがみ付いてじわじわ登っていくような人間のほうが将来性は望めるというものだ。バカ、単細胞、要領が悪い、不器用、など何と言われようが、である。

●アルキメデスの原理   2018.1.18
地球温暖化により北極の氷山の氷が溶けて海水面が上昇する!とか本気で心配している人がいる。またそのような有りえないことを報道して危機感を煽っているマスコミがある。バカではないのか。南極などの地上にある氷河が溶けて海に流れ出せば理論上海水面は上昇するが、北極の氷がいくら溶けても海水面は上昇しない。これは高校の物理で「アルキメデスの原理」として教わっていることだ。しかし高校の物理は選択科目なので、この原理を知らない人も多いのだろう。とはいえ「王冠の体積を計る方法」の話しぐらいは義務教育のどこかで教わっているとは思うのだが、どうなのだろうか。

●無宗教者   2018.1.17
イギリスの国立社会調査センター(National Centre for Social Research)の発表によると、現在イギリスで何の宗教も信じていないという人の割合が、半数以上の53%に達したという(2017年)。ヨーロッパといえばキリスト教信者が多いと思われがちだが、実は無宗教者が最も多いのはチェコで76.4%、次いで北朝鮮で71.3%、その次がエストニアで59.6%、そして日本の57%と続くそうだ(2014年「ビュー・リサーチセンター」(Pew Research Center))。1997年に公開されたSF映画コンタクトの中で、主人公のエリーが「移動装置」の乗組員を志願するが、彼女が無宗教者であるため「人類の95%が何らかの神を信じており、神を信じない者は人類の代表としてふさわしくない」という理由で乗務員に落選するというシーンがあった。その後の20年で世界的に無宗教者が大幅に増えたということなのだろうか?これはインターネットの普及とも比例しているようにも思える。いずれにしても世界には宗教や信仰を飯のタネにしている人が膨大な数存在するはずだ。そういう人たちはこれからどうするのだろうか。

●パラダイムシフトの最終形   2018.1.16
パラダイムシフトは25年続くと言われてきたが、どうやらもう少し、いやもっと延長されそうだ。仮想通貨の普及により、既存の貨幣と銀行というものは必要なくなり、テレビや新聞は消滅することが現実味を帯びてきて、自動車の自動運転化が実現し本当の意味での「自動車」となり、AI化が加速度的に進み、人間の労働そのものがロボットにより「自動化」され、医療や化学の分野でも相次いで革命的な変革が起こり、人間は「働くなくても喰っていける」存在になりつつある。25年でひと段落、と思っていたものが、次の段落まで一気に行きそうな気配がする。とはいっても次の段落の最終形を見ることができるのは我々の次の世代であろう。

●大相撲(2)   2018.1.15
→昨日の続き。 ではスポーツとは何かというと「専門組織によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとするのが『近代スポーツ』であり、19世紀英国で逞しいキリスト教徒たちの運動や運動競技による人格形成論が台頭したころに確立されたと言われている。」とのことだ。多くの近代スポーツは、それ以前の中世に都市や農村で行われていたスポーツにまでたどることができるとのことだが、近代スポーツが確立されたのは大相撲が確立された時期よりずっと後だ。もちろん、その時期には「ルール」という言葉もなかったはずである。いずれにしても「大相撲」を「スポーツ」と位置付けることに色々と無理があるのではないだろうか。

●大相撲(1)   2018.1.14
白鵬の「張り手」や「かち上げ」は横綱としての品位に欠け、美しくない!という意見がある一方で、大相撲はスポーツであり、そのルールに従ってやっているのだから問題にはならない!という意見もある。しかしどうだろうか、そもそもが「大相撲」を「スポーツ」と位置付けることで色々と問題が出ているのではないだろうか。大相撲は「江戸時代から続く職業的な最高位の力士たちによって行われる神事の中での武道、または興行である。」とされている。神事であるから儀式、儀礼的な行為が行われるのであり、武道であるからその精神性や心の在り方が尊重され、興行であるから、その中には演出や「やらせ」が含まれて当然なのであろう。→明日へ続く。

●病院(2)   2018.1.13
昨日の続き→。「最後は自宅で」ということが言われてもいる。ということはいよいよダメとなると「自宅」で、それまでの健康なうちは「病院」で、ということになる。ヨーロッパでは「教会」を中心にして「村」や「町」が形成されていき、現在にいたっている。「教会」がコミュニティーの中心であったわけだ。これからの日本は「病院」をコミュニティーの中心とした「町づくり」をしていく必要があるかもしれない。ただし日本人の平均寿命が長いというのは「病院」と「薬」によって強制的に伸ばされているようにも思える。ということは「病院」に頼らず、寿命は自然に委ねるという思想の社会になってゆく可能性もあるかもしれない。現在、寝たきり老人の数が最も多いのも日本であるとのこと。

●病院(1)   2018.1.12
50歳以上の人の多くが毎日何らかの薬を服用している。飲まないと死んでしまうというほどでもないが飲むことで寿命を伸ばしていることは確かなようだ。そして定期的に病院に通っている。この病院に通う頻度は高齢になればなるほど増していく。今でも病院に行けば年寄りだらけであるというのが実情だ。中には病院に通うのが日課になっている老人も少なくない。病院が老人のコミュニティーになっている。「今日は○○さん来てないようね?」「あらら、ほんとだ。どこか具合でも悪いんじゃないかしら…」というふうになる。→明日へ続く。

●なぜ「左足ブレーキ」は普及しないのか?   2018.1.11
普及しないだろう。右手の箸で飯を、左手の箸でおかずを食うようなものだし。右手の鉛筆で字を書いて、左手の消しゴムで文字を消すようなものだし。右手で牌を積もって、左手で牌を捨てるようなものだし。スマホ画面を左手でタップし、右手でフリック入力するようなものだし。左手のグラブでボールを取って、右手で送球するような…あっ!。でも普及しないだろうな、感覚的に。

●キャッシュ(2)   2018.1.10
→昨日の続き。キャッシュの容量の少ない人は、他人の話を最後まで聞くことができない。話し手が①〜③までのプロセスを説明したとすると、①の説明が終わると、さっそく①を実際にやってしまうのだ。①をやってる間は②と③の内容は全く聞いていないので、②と③は理解できていないままになる。己のキャッシュの容量が少ないことが分かっていて①〜③までのプロセスを全て記憶しておく自信がないのかというとそうでもないようだ。単にせっかちで待てない性格なだけのようである。そしてそういう人間に限って遅刻や欠席も多く、進捗の遅れに拍車をかけることとなる。

●キャッシュ(1)   2018.1.09
キャッシュ(cache)とは「貯蔵所」という意味で、よく利用するデータを高速な記憶装置に蓄積しておくことにより、コンピュータのデータ処理を高速化することだ。例えば「コピペ」するときにコピーした内容をペーストするまでの間、一時的に記憶しておくのがキャッシュであり、ウェブサイトの内容をいちいちネットから読み込まなくても済むように一時的にパソコン側で覚えておくのもキャッシュのおかげである。そしてこのキャッシュの容量はデバイスやアプリによって異なり、必要に応じて設定することも可能である。そしてこのキャッシュの容量の差異は人間にもある。→明日へ続く。

●年賀状   2018.1.08
もうそろそろ年賀状出すのをやめようか…と思っている人は多いはずである。しかしこれといってやめる理由も見当たらないので、毎年毎年ずるずると年賀状を書き続けてきてしまった。ところが今年は「値上げ」という明確な見切りをつけられる理由ができ、もう来年からは年賀状出すのはやめよう!またはLINEやMailで連絡できる相手への年賀状はやめよう!と決めた人も多いのではないだろうか。1枚62円という通信料は明らかに高いし、現在でも10〜20代では年賀状は1通も出さないという人たちが、将来的に出すようになるか?というと答えは間違いなく「No!」であろう。手間とコストと年末年始の大切な時間を奪うような悪習を誰がやるとでも思っているのだろうか?Instagram、Facebook、twitter、LINE、Skypeと、いっくらでも代替できるシステムはあるし、年賀状では動画も送れないではないか。もっともJPとしても、年賀状という事業を縮小するために踏ん切りをつけるための値上げだったのかもしれないのかな。

●恵方巻き(2)   2018.1.07
→昨日の続き。チョコレートがヨーロッパにもたらされた最初の記録として、1544年のケクチ・マヤ族の使節による、スペインのフェリペ皇太子への訪問とされている。そしてバレンタインデーは269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日だと、主に西方教会の広がる地域において伝えられていたそうである。チョコレートよりもバレンタインデーのほうが1000年以上早いのだ。と、こんなことはネットが普及する以前であれば、図書館に篭って調べなければ分からなかったが、今は誰でも一瞬で調べることができる。ということで恵方巻きが大阪を中心とした一部の地域の習慣であったことも、1998年にセブンイレブンが「丸かぶり寿司 恵方巻」で全国に広めたことも、便乗商品が色々と現れたことも普通にバレている。まぁ、不味くはないが、格段美味しいものでもなく、菓子というより主食に近く、塩分も糖分も高そうだし、極めて下品な食べ方を推奨しているし、時代に合った食べ物ではないことは確かであろう。

●恵方巻き(1)   2018.1.06
2月3日の節分を前に、早くも「恵方巻」商戦が始まったらしい。当然のことながら消費者の反応は冷ややかで「悪習」の声も年々高まっている。ではなぜこんなもんが流行ると思ったのだろうかといえば、もともとは「ホワイトデー」の2匹目のドジョウを狙った企業経営者がいたからではないのだろうか。ホワイトデーは全国飴菓子工業協同組合が金儲けのために1980年に考案したイカサマイベントである。バレンタインデーの内祝い的な習慣を勝手に捏造した日本独自の規格であり、中国・台湾・韓国など東アジアの一部でも定着しているが、欧米ではこういった習慣は見られない。まだネットがない時代だったので、消費者は簡単に騙すことができたが、ネット社会になった今ではそうは簡単にはいかない。もっともバレンタインデーでチョコレートを贈与するというのも日本独自の製菓業界による販売促進のための戦略であった。→明日へ続く。

●餅   2018.1.05
正月になると、毎年餅を喉に詰まらせて死んでしまう人がいる。死ぬというリスクがあるのに、なぜあんな変な食感で味のないものを日本人は食うのだ?と外人は思うらしい。しかし喉に詰まらせて死ぬ危険性があるのは、餅に限ったわけではなく、固形で口に入る食品の全てに可能性があるわけだ。ただ日本人の多くが餅を食べ、その量が正月に集中しているために、餅だけがクローズアップされるのであろう。また餅の窒息死の9割が65歳以上であるということもあり、年をとると喉の機能が低下し、いったん詰まると吐き出しにくいということもあり、認知症や物忘れがあるような場合は、ついうっかり大きな塊のまま飲み込むことがあるとのこと。喉に詰まりやすい食品としては、餅の他に、刺身、寿司、魚の骨、りんご、かまぼこ、海苔、わかめ、こんにゃく、ゴマ、豆類、カステラなどがあるそうだ。要するに高齢者が好んで食べる機会が多いものということだ。しかしゴマはどうやって喉に詰まらせるのだろうか?

●写真の個人情報   2018.1.04
個人情報に対する考え方は年々シビアになってきている。SNSやブログ、ホームページに掲載するか否かは別にしても、写真を撮るときには必ず被写体となる人に承諾を得るということも社会的な常識になってきている。例え後ろ姿であっても、髪型や衣類、体型、身につけているアクセサリーやバッグやバックパックなどから個人を特定できる場合もある。例えばバックパックにつけたイニシャルの入った缶バッジからでも個人が特定できるわけだ。そんな時代になっているにもかかわらず、公民館のアマチュア写真家の写真展では被写体の承諾を得てないであろう写真がでかでかと引き伸ばされて公開されていたりもする。そしてそんな写真を撮るのは、ほぼ間違いなく老人である。

●ポイントが貯まる   2018.1.03
1万円の買い物をすれば100円分のポイントが貯まるということは予め100円分の利益を上乗せしているだけのことである。特に仕入れが無い業種ではポイントは乗せ放題であり、そもそもある定価というのがすっごく怪しいものなのだろう。なので1万円のものをポイント無しで9,900円で売ってもらって、ポイントが欲しい人はその度に自分で100円貯金箱に入れれば良いハナシだろう。とはいえそんなセコイ守銭奴みたいなことは普通はやりたくない。だからその作業を売る側に外注しているわけだ。そしてその外注の手数料が不要となれば、やはりポイントはありがたいのか。と、そんなことは考えずに「貯まった貯まった!」と単純に喜んでいる消費者というのもおめでたいものである。

●社長という職業   2018.1.02
社長という職業の人が全て社長に適しているかというとそうでもない。社長なのに決断力が無かったり、他人の気持ちを考えられなかったり、衝動的で計画性が皆無だったりもする。ではなぜそんな人が社長をやっているのかというと、社長に適していない以前に、全くもって「社員」に適していないのだ。上からの命令や指示を聞けない。常に自分中心である。他人の迷惑を顧みず思いつくままにいつも好き勝手なことをやっている。だから社長以外はできないのだ。それでもやっていけるのは、仕方なく、しょうがなく、やむを得ず 、 心ならずも、フォローしてくれる人が周りにいるということを忘れてはいけない。

●光と影   2018.1.01
絵を描く、写真を撮る、動画を撮る、とその時に必要なのは「光」である。光がなければ何も映らないし、何も見えないし、何も描けない。晴天時の白昼光が当たっている場合のモチーフの見え方は明らかに違う。鮮明で彩度が高くコントラストが強く美しい。そして光と同時に必要なのは「影」である。同じ風景でも早朝や夕方の斜光で長い影ができているときの見え方は、明らかに神秘的で印象的で美しい。まずは被写体が美しく見えることがアートの基本だ。光と影を意識せずに、とりあえずはモチーフだけが写っていれば良いというのはアーティストの仕事ではない。

BACK

メニュー