2018年4月

●スマホと集中力(2)   2018.4.30
→昨日の続き。テキサス大学では800名のスマホユーザーを対象に、注意力が必要なコンピューターテストを受けてもらったとのこと。被験者の一方のグループはスマホを別室に置いておくように指示され、また別のグループはスマホをマナーモードにした上で、画面を机に伏せて置くように指示された。成績は、スマホを別室に置いてテストに臨んだグループの方が良好だったとのこと。最近の学生が集中力が持続できないのは、単に若いとか、幼稚とかいうのではなく、スマホのせいだったのだ。

●スマホと集中力(1)   2018.4.29
視界にスマホがあると集中力や課題遂行能力が阻害されるらしい。現代人はスマホを確認することに慣れすぎてしまったために、ほかに集中せねばならないことがある場合、意識してスマホを確認する行為に逆らわなければいけないとのこと。スマホから意識を逸らすためにはそれなりの努力が必要になり、それが故に目の前の仕事に集中するためのエネルギーと注意力が低下するということが証明されたとのこと。こうしたことを防ぐには、スマホを完全に手の届かないところに遠ざけ、意識下からそれを取り除かねばならないそうだ。→明日へ続く。

●野党のパフォーマンス(2)   2018.4.26
→昨日の続き。カップ麺をあまり食べたことのない人がカップ麺を買いにコンビニに行く。いろいろな種類があるのだが、興味が無いのでどれを買っていいのかは分からない。そしてとりあえず「カップヌードル」を選ぶ。カップヌードルが美味いかどうかも全く分からない。選んだ理由は「名前を知っているから」である。と、これと同じである。政治にあまり興味の無い人が投票所に行く。知らない候補者ばかりで誰に投票すればいいのか分からない。とりあえず「名前を聞いたことのある」候補者を選ぶ。と、こういうことであろう。政治に興味を持っている人は少ないのだ。芸能界に興味を持っている人の1/5程度であろう。ということで、へんてこなパフォーマンスに明け暮れる野党議員の行動は、ある意味正しい。

●野党のパフォーマンス(1)   2018.4.28
国会での審議をサボり、へんてこなパフォーマンスに明け暮れる野党に対しての風当たりは強い。しかし普通に国会の審議に応じていたのでは、マスコミに取り上げられる機会は少なくなる。いや、全く取り上げられてもらえなくなるかもしれないのだ。そうなると党の名前の自分の名前も忘れられてしまう。政治家は名前を覚えてもらってナンボの世界だ。だから宣伝カーで名前を連呼して回るのだ。しかしそんなことをするよりテレビや新聞で名前が出て、顔が映り、良くも悪くも話題となって、ブログやツイッターが炎上するほうが遥かに効果的なのだ。だからパフォーマンス見え見えであっても、何もしないよりかは遥かに「まし」なのだ。「悪名は無名に勝る」ということなのだろう。柚木道義とかを見ていると、そのことが露骨に分かる。さらに政党支持率が0%とかになれば、政策とか理念とかは関係なく、パフォーマンス最優先になるのも当然のことだろう。→明日へ続く。

●メシウマ   2018.4.26
山口達也の強制わいせつ容疑の記者会見が行われた。会場には多くのマスコミ関係者が、「他人の不幸は蜜の味」の蜜の匂いを嗅ぎつけて集まってきた蜜蜂の如く、マイクを持って山口達也を取り囲んだ。蜜の味は美味しいのだ。メシウマなのだ。逆に「他人の幸福は飯がまずい」という表現がある。ハーバード大学のエルゾ・ラットマー教授は2005年に論文にこう書いている。「隣人達の収入が上がることは、自分の収入が減ることと同じ程度の不幸をもたらす」。ということは、ジャニーズは年収も高く、人気もあり、ルックスも良く、家庭も幸せである。としたら、そのうちのいくつかが無くなってしまうことが、普通の人にとっては幸せをもたらすということになる。だから仕事ができなくなって年収が減ることがメシウマなのだ。幸せな家庭については、既に山口達也は離婚しているので、その時点でも、一般人は少しメシウマだったはずだ。

●躾   2018.4.25
躾というのは、家庭の中で、社会の中で自然に教えられ身についていくもので、「躾」の本を買って参考にするものではない。躾はその人の生まれ育った環境や時代によっても異なり、自分の躾を他人に当てはめたり強要することはできない。しかし一方では共通の社会の中で共有できる躾も数多くある。一定の基本的な部分は守りつつも細かい部分は臨機応変に対応して躾ていくことが肝要であろうとも思える。ちゃんとした社会人であるかどうかは、ちゃんと躾られているかどうかでもある。犬と同じだ。

●経営者   2018.4.24
「経営者が絶対にやってはいけないこと」「こういう人は社長をやらないほうがいい」などというキャッチがネット上に色々とある。日本には約420万の会社があり、420万の経営者がいる。全く人の話しを聞かないワンマンもいれば、低姿勢で他人の言うことをいつも聞いている経営者もいるし、金のことばかり考えている守銭奴もいれば、どこで儲けているのか分からないようなボランティア精神旺盛な経営者もいる。とくに経営者は個性的なキャラが多く、それなりの理念や人生観も持っている人がほとんどだ。そしてもし経営者を目指すのであれば、とにかく実社会で色々なことをやってみて失敗を重ねて経験値を増やすことが重要なのであろう。失敗を恐れて「経営者が絶対にやってはいけないこと」とか「こういう人は社長をやらないほうがいい」などというキャッチを鵜呑みにしている時点で経営者には向いていないということになるのではないかな。

●大衆に媚びる   2018.4.23
いくら個性が尊重される時代になったからといっても、まだまだ大衆の力は大きく、世の中の人の多くが大衆に所属している。従ってマーケットの大半は大衆が占めている。大衆にウケないものは売れない。だからモノを売るためには大衆をターゲットにせざるを得ない。従って売れるモノというのは平凡で在り来たりで差し障りがなく刺激を抑えたモノが多くなる。大衆に媚びることが最もリスクの少ないやり方なのだろう。しかしそんなやり方をしているうちに大衆に飲み込まれ大衆の中で埋没した大衆の中の一人という蟻の大群のなかの一匹の蟻のような、どうでもいい存在になってしまうのだろう。

●学者   2018.4.22
学者と呼ばれる人は凄い。研究熱心だし物知りだし探究心が強く地頭も良く回転も早く計算も早い。しかし時として「えっ、バッカじゃねえの?」ということを言う学者がいる。これはこうだからそれもそうなるはず、従ってあれはああなるはずだ」というふうに考えた結果なのだろう。ところが世の中そうそう単純なことばかりではない。理屈では説明できないものも沢山あるのだ。自分の専門のコトはめちゃくちゃ詳しいのだが、専門外のことは全く知らなかったりもする。知らないのならともかく、めちゃくちゃアマく見る傾向もある。ある学者が「Gパンって千円ぐらいで買えるんでしょ」と言っていたのを思い出す。

●立憲パートナーズ   2018.4.21
枝野幸男は内閣官房長官時代に3.11直後の毎日の記者会見で日に日に痩せていく様子がテレビに映し出され「枝野は頑張ってる!」と多くの国民がその懸命な行動を湛えた。しかしその後、4月17日に福島に視察に行ったときの「フルアーマー事件」で一気に信用を失った。現地の若い職員が薄手の防護服とマスクと軽装で作業をする中、月面着陸にでも行くような超重装備で登場した。自分だけが完全に放射能から身を守っていたのだ。その姿は明らかに度が過ぎていたし滑稽にも写った。TVのインタビューに答えるときも、その宇宙服の窓の奥〜ぅのほうの顔が宇宙服内部に取り付けられたマイクに向かって喋っていた。40歳過ぎた枝野より20代で働く若者の方がよっぽど危険なはずだった。そして「直ちに影響は無い」と言い続けたのだが、家族をシンガポールに避難させていたという事実が発覚した。政治的思想とはさておき、こんなにまで「自分の安全が何よりも第一」の人間が党首を務める党に、どれだけの人がパートナーになるのだろうか。

●IYI   2018.4.20
「IYI(Intellectual Yet Idiot)」はケントギルバート氏が紹介した「高学歴なのに仕事ができない人」の総称である。幼少期からとにかく詰め込み教育をされ、教科書や参考書に載っていること、 学校や塾で習うことはよく知っているが、社会で生きていくための術やコミュニケーション能力が著しく低い。当人の性格のせいであったり、周囲の環境であったりするため、一概に「これが原因」とは言えないが、「勉強ができればいい子」という風潮がそういう人物(IYIな人)を生み出しているのは事実であるようだ。「高学歴なのに仕事ができない人」というより「高学歴なのに一般常識が欠落している人」と言ったほうがいいかもしれない。そしてこういった人たちの「常識」は、体験したのではなく聞き齧ったものなので、短絡的な理論で自己完結させてしまうことが多く、現実社会には則していない極めて表層的な場合も多い。そしてそういった人が社会に出て、それなりの地位に就くようになってからIYIのIdiotを曝け出している例が増えているようだ。米山元新潟県知事、福田元財務省次官、前川元文部科学事務次官、山尾志桜里元民進党政務調査会長、豊田真由子元内閣府大臣政務官、などだ。籠池泰典はこれには該当しない。彼には「詐欺師」という立派な職業がある。

●指数関数   2018.4.19
インテル創業者の一人であるゴードン・ムーアが1965年に唱えた論文によれば「半導体の集積率は18か月で2倍になる」ということだった。これはムーア自身の半導体業界の経験則によるものだった。しかしこれはあくまで直線的に進歩した場合のことだ。HP(ヒューレット・パッカード)社の最高技術責任者シェーン・ウォール氏によれば、「技術は直線的に進歩するものではない」とのことだ。処理速度は「指数関数」的に上昇し、「10年後の携帯電話は10倍強力になっているどころか、10億倍も強力になっている」のはそのためなのだそうだ。確かにパラダイムシフトがあと何年続くとか言っている時代ではなくなってきているようだ。技術的イノベーションは新しいビジネスモデルや就業モデルを生み出し、製品をデジタルで輸送し、印刷するようになり、ブロックチェーン技術が進歩すると我々の生活の常識の多くがパラダイムシフトすることになる。全ての事象が「指数関数」的に上昇し、変化していくと考えたほうがいいのだろう。

●視覚と聴覚   2018.4.18
視覚と聴覚はどちらも感知できる対象は波形である。周波数の低いところを感知できるのが聴覚で、高いところを感知できるのが視覚である。波形といっても視覚は電磁波で聴覚は音波なので一概に比較することはできないが、可視光線が400nm〜800nm(ナノメーター)、可聴音域は50Hz〜20000Hzとされている。ナノメーターをHzに変換してみると400nm〜800nmは749,481GHz〜374,740GHzとなる。桁数が違い過ぎて感覚的に比較しづらいだけのことだ。生物として最も重要なのが食べ物を感知する器官、即ち味を感知する舌、匂いを感知する鼻である。そして食物を確保するため、または食物として捕獲されないようにその対象物を察知するのが目と耳である。従って目や耳は生物としてのプライオリティーは舌や鼻より低いのだ。だがらモグラや深海魚は目が見えなくても生きていけるし、味覚や臭覚が麻痺すると、うんこを食べて死んでしまうのだ。

●馬鹿   2018.4.17
馬と鹿の区別がつかないほど教養のない愚かな人間のことを「馬鹿」と呼ぶようになったらしい。しかし厳密には、『秦の趙高が皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。家来の多くは趙高の権勢を恐れて「馬です」と答えたが、「鹿」と答えた者は暗殺された。このことにより、自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す意味として「馬鹿」と言うようになった。』とのこと。実際にはバッタとカマキリの、ゴキブリとクワガタの、区別がつかないほどの(勉強はできるが)愚かな馬鹿というのはたくさんいる。そして自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す愚かな馬鹿はもっとたくさんいる。

●オヤジの愚痴   2018.4.16
「オヤジの小言はよく聞け」というが、「オヤジの愚痴」は全く聞くに値しない。そこには学ぶべき教訓も無いし、オヤジ独特のねちねちしたい言い回しで聞いてるほうはイヤ〜な気分になる。しかも話しが長く、周囲巻き込み型のマイナス思考で、そのマイナスのオーラを全開で愚痴るので始末が悪い。何かの拍子でこの「オヤジの愚痴」を聞く羽目になってしまった場合、その愚痴は半永久的にエンドレスに続くので、聞く方は、何の利益もメリットも生産性もない膨大な時間の損失となる。従って誰もその愚痴を聞かなくなり、愚痴オヤジはより孤立していく。家族にも同僚にも愚痴を聞いてもらえなくなったオヤジに不幸にして捕まってしまった場合には、堰を切ったような最強の愚痴を聞かされることになるので気をつけよう。

●LINE電話   2018.4.15
パソコンの前で作業している最中にLINE「無料通話」の電話がかかってくる。手元にスマホを置いていなかったとする。パソコンのアプリ、またはブラウザの拡張機能を起動する。「えーと電話に出るにはどうするんだっけ…」と考える。通話をするのだからヘッドセットを用意する。そうこうしているうちに呼び出し音が切れる。そして発信者を確認して、スマホを取りに行き、折り返しスマホから電話をする。電話をするにはやっぱり電話(スマホという電話器)が便利だ、と実感する。

●ニュース   2018.4.14
新聞社からメルマガで今日のニュースのヘッドラインが送られてくる人も多いと思う。しかしそのメルマガのニュースを毎日読んでいるという人は少ないのではないか?とも思う。ニュースを読むのであればアプリのヤフーニュースやニュースパス、グノシーなどのほうが読みやすいはずだ。なぜ読みやすいのかというと、①ヘッドラインが画像付きでイメージしやすい。②スマホで読むことを前提にデザインされている。③いろいろな(もっとも分かりやすいであろう)サイトにリンクしている。特に③は、新聞社からのメルマガの場合は自社のサイトにしか飛ばないので、「飽きる」「情報が偏る」などの問題があるのだろう。そもそも新聞というニュース伝達手段が時代遅れであり、メルマガという情報伝達手段が時代遅れであるのだから仕方あるまい。

●しょっちゅう謝っているハメにもなる   2018.4.13
ウェブの仕事がこれだけ高度で複雑になってくると、アップロードしたデータが全て一発で上手く動作するとは限らない。細かい部分を常にバグフィックスしていくようなプログラミングと同じような作業も必要になってくる。そもそもホームページというのはサーバーにアップした1つのデータを世界中の人が共有して見るものだ。そして誤りがあればサーバーにアップした1つのデータを修正することで世界中の人が修正された正しいデータを見ることができる。そういった意味では、細かい修正はサーバーにアップしてからでも良いということになる。しかし実際にはそうはいかない。デザイン業界は未だに印刷物や量産品を前提としていて、校了などと言って、全ての校正が終了してからアップロードするという風習が残っている。しかし校了したからといって、サーバーにアップすれば、色々と細かい問題も発生して全てが正しく表示、動作するとは限らないのだ。従ってウェブデザイナーは、しょっちゅう謝っていなければいけないハメにもなる。

●人間だけが   2018.4.12
他の哺乳類に比べ、人間だけが、
  • 愚かである
  • 一年中発情期である
  • 自分がいつか死ぬということを知っている
  • 言い訳をする
  • クソしたあとシリを拭く
  • 確定申告をする
  • 嫌いなものでも食べる
  • 歯を磨く
  • ツラくても走る
  • 哺乳類の中で人間が一番偉いと思っている
●意識   2018.4.11
現在のAIやロボットには「意識」というものを持つようになることは期待できるのか?実際には多くの科学者たちは、AIがすぐに意識を宿すと考えているらしいが、一方で現状のままでは不可能であるという見解もあるようだ。なかなかイメージしにくい問題ではあるが、現在のAIやロボットのテクノロジーが生物の進化に例えるとどのヘンにあるのだろうか?と考えると分かりやすいかもしれない。ネズミぐらいだったら意識を持つ日も近いだろう。ゴキブリぐらいだったらまだまだ先の話しになりそうだ。ミジンコぐらいだったらずっと未来のことになるだろう。植物ぐらいだとしたら永遠に無理なような気もする。しかしネズミもゴキブリもミジンコも植物も、とりあえずは自力で成長して繁殖して子孫をのこすことができる。AIやロボットもとりあえずは自力で成長して繁殖して子孫をのこすことができるようになることが先決なのではないか。意識の話しはそれからだ。

●土地の値段(2)   2018.4.10
→昨日の続き。自然災害に対するリスクも土地の値段に反映させるべきではないか。川沿いの家は洪水で家が土地ごと流される危険性もある。治水整備が進み、百年に一度の大雨が降っても大丈夫!などと言われても、それが千年に一度の大雨だった場合はどうよ?ということだ。それ以前に津波のほうが危険だろう。河口付近の大きな川の沿岸であれば確実に水没するはずである。景色の良い山の斜面もリスクは大きい。千年に一度の大雨で土砂が崩れるかもしれないし、千年に一度の大地震で地滑りが起きるかもしれない。今では全国の活断層の位置もほぼ分かっているはずだ。景色が良いとか悪いとかは関係なく、自然災害のリスクが大きい場所は、土地の値段も安くしたほうが理に叶っていると思うのだが。

●土地の値段(1)   2018.4.09
交通の便が良く、住環境が整っていて、便利で人気があるところの土地は高い。これに比べて、田舎の僻地で交通の便も悪く、人口密度が低いところの土地は安い。逆ではないのか。僻地では、例えば数軒の1区画のために遠くから電気を通し、そのために何百本の電柱を立てる必要がある。電話線にしても水道にしても道路にしても然りである。一軒あたりにつぎ込まれる税金の額は都心の密集地に比べれば格段に高いはずだ。僻地に散らばって住んでいる人たちが税制を圧迫していることは事実であろう。過疎化が進めば進むほど、人間はひとところに集まって暮らしたほうが効率的なはずだ。→明日へ続く。

●国家   2018.4.08
国家とは三権(司法・立法・行政)によって統治された機構であり組織である。現実的には(一概には言えないが、おおよそ)、同じ国境線で区切られた領土に住み、同じ言語を使い、同じ通貨を使い、ワールドカップで同じチームを応援する人々の集まりである。しかし本当にこのような機構、枠組みが必要であろうか?国家という枠組みを無くしてしまえば、国家間での戦争や紛争もなくなるのではないか?という意見もあるようだ。ところが実際には戦争や紛争を防ぐためにお互いの領土に境界線を引き、お互いに「入ってはいけない」ことと取り決めたのが国家という組織なのだそうだ。エライ人たち同士が勝手にそう決めているだけだという意見もあるが、そう決めておかないと、やはり紛争やトラブルが勃発してしまうのが人間の愚かなところなのだろう。

●決定する   2018.4.07
判断をして決定をするということは、その決定したことに決定を下した人が責任を持つということだ。そしてその決定が常に正しいとは限らず、時には失敗して他人に多大な迷惑をかけたり、大きな損害を与えたりすることもある。そのリスクを避ける為に人は「○○さんが言ったから」「〇〇さんの意向を汲んで」「〇〇さんの提案に従った結果」というように決定に責任を持たないような理屈を予め考えておくようになる。つまり決定した内容に自信が無いのだ。であれば最初から決定する立場の人間にはならないことだ。しかし決定するという行為はハタからはカッコよく見える。だから決定する立場になってはいけない人がヘンな決定を下してしまう例が後を絶たないのであろう。

●「女は土俵から降りて」事件   2018.4.06
京都府舞鶴市長が土俵上で挨拶中倒れ、 救命処置をした女性に「女は土俵から降りて」とアナウンス。これに対して「人命より伝統を優先する」相撲協会への批判が相次いだ。当然のことであろう。思い出すのは1985年の「大ちゃん事件」だ。当時10歳の大ちゃんがガードレールとダンプカーの間を抜ける際に転倒、両足を轢かれる。推定出血量約500ccと判断され、一刻も早い輸血が必要と判断されたが両親が信仰上の理由で輸血を拒否。事故から5時間後大ちゃんは亡くなったというもの。この両親が信仰していたのはエホバの証人である。今回の「女は土俵から降りて」事件は日本相撲協会という宗教である。現実社会と宗教との乖離が少しずつクローズアップされる世の中になってきたようだ。そもそも宗教とは現実社会では辛すぎて生きていやない人たちのものであって、現実社会との乖離も「あって当然」のものなのだろう。

●おしゃべり   2018.4.05
いわゆる「おしゃべり」な人の書く文章は支離滅裂で一貫性がなく読んでも何を言いたいのかがさっぱり解らない、ことが多い、というかほとんどである。なぜ解らないかというと、まず自ら読み直さない、ということは推敲しない、ということは文章として未完成である。そして自分は思ったことを次々と文章にする才能があると思い込んでる節がある、ということだ。そして「おしゃべり」のときのノリで文章を書くから意味が解らなくなる、ということは、普段の「おしゃべり」で喋っている内容のほとんどは、聞いてる人はわけが解ってないまま聞いていて、解ったふりをしているだけということを、解っておくべきだろう。

●ラジオ   2018.4.04
ラジオ(radio)は放射線・電波・無線などを意味するラテン語の接頭辞であり、Radio-activity (放射能)のように使われる。それがいつの日か「主に音声だけで配信される番組一般」を意味するようになり、その番組を受信する装置を単にラジオと呼ばれるようになり、今ではその受信装置が自体が姿を消しスマホアプリとなり、ラジコ、らじる、などという名前に変わってきたようである。もともと放射線を意味していたものが何でやねん?と思われるかもしれないが、日本語には「スーパー(Super)」という小売業態の一つを意味する言葉もあるくらいだから驚くことでもない。

●宿題   2018.4.03
子供はなぜ宿題をやらないのか?やるわけがない。家では勉強をやらないから小さい頃から学校に通わせているのだ。学校は勉強を教わる場所以前に、毎日通学することを習慣づけるために行くところなのだ。大人も同じだ。家にいると働かない。誰かに常に監視されていて働くことを余儀なくされる会社というところに通勤するから働くのだ。その通勤の練習が通学なのだ。いずれにしても子供も大人も家にいるときには勉強も仕事もしないようにできているのだから仕方あるまい。

●信じたいことを信じる   2018.4.02
人は正しいことを信じるのでなく、信じたいことを信じる。そう言われてみると世の中思い当たるフシが有りすぎだろう。逆に言うと、信じていたものが間違っていたと気づいたとしても、俄かに信じられない。ということだろう。インターネットで誰でも大量の情報を得ることができるようになると、信じていたものが覆されることも珍しくないはずだ。そして信じていたものが覆されたときのダメージは思いのほか大きく、受け入れるまでの時間もかかる。だから、正しいことを信じるのでなく、信じたいことを信じる。ように人はできているのだろう。サンタクロースは本当はいないんだよ、ということで子供が受けるダメージを見ればわかるだろう。

●ベストセラーの本   2018.4.01
「◯◯◯読んだ?」◯◯◯は話題になったベストセラーの本のタイトルである。「読んでない。」と答えると、質問したほうは「自分のほうが流行に敏感である」「自分のほうが文化的である」というような優越感を味わえることになる。しかし1981年に歴代トップの売り上げを誇る「窓ぎわのトットちゃん」でさえ、581万部である。日本の人口の4%しか買っていないということだ。それでも「581万部も売れた本なのにまだ読んでないんだ」と言われたりしたらこう言い返そう。「ではあなたは、世界で3880億冊売れた『聖書』も、当然のことながら読破しているのですよね?」

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