2019年1月


●絵に描いた餅   2019.01.31
「絵に描いた餅」とは、実際には何の役にも立たないこと。また、実現する見込みがないことの例えである。そういう意味では「写真に撮った餅」も同じであろう。しかし写真は「真実」を「写す」ものなので、絵に比べて、リアリティーが高いような印象を与える。つまり絵は偽物、写真は本物、という認識が一般的なようだ。ではCGはどっちなのだろうか?恐らく写真の餅をPhotoshopで加工して、より魅力的で美味しそうでリアリティーがある餅の写真は、ただの餅の写真よりもクオリティの高い画像になることだろう。また3D-CGで作った餅は、さらにクオリティの高い画像になることだろう。お供え餅であれば基本的に回転体で作ることになるので制作時間も短くて済む。といったところで、写真の餅もCGの餅も食えないことは確かであり、実際には何の役にも立たない。しかし3D-CGで作った餅を熱可塑性樹脂の代わりに餅を使って3Dプリンターで出力すれば実際に食える餅ができる。また樹脂だとしても、食えないまでも食品見本としての餅にはなる。従って「絵に描いた餅」も、実際には何の役にも立たないものではなくなってきている。


●ぼっち   2019.01.30
大学でも、ぼっちの学生を見かけることが多い。4年間を通じて、最後までぼっちの学生もいるとのこと。ネットが普及した昨今では、コミュニケーションの相手が必ずしも人間でなくなってもよくなってきている。上手くいけば(下手をすれば)、一生、人間とは付き合わなくても生きていける時代になっているのかもしれない。煩わしくも鬱陶しい人間同士のコミュニケーションを排除すると決めてしまえば、それはそれで有意義な生き方ができるかもしれない。人間は、一生の間で、対人間のために費やす時間と労力は相当なものになるはずである。その相当量の時間と労力を、勉学と研究に使ったとすれば、人類全体での生活のクオリティも向上するのではないだろうか。しかし対人間のために費やす時間と労力には「恋愛」も含まれるので、人類は存続の危機にも晒されることにもなるだろう。


●美化   2019.01.29
例えばピアノを全く弾けない人が、ピアノの前に座って、適当に鍵盤を叩いたとする。が、その音は、単なる騒音であって「うるさい」だけで、心地よさも感動も与えることはない。しかし絵画の場合、全く絵心のない人が、描いた絵であっても「味のある」「個性的な」「独特の」といったような形容詞を伴って賛美されることとなる。なぜだろうか?と考えてみると、人間の目から入ってくる情報は、耳から入ってくる情報よりもはるかに多い。目を開いている時には、常に絶え間なく入ってきている。なので、よほど汚いとか、不快とか、怖いとかいうもの以外は、正当化、美化、して脳に伝わるような仕組みになっているのではないか、と思える。ほとんどの見えるものは美しい、と感じておかないと、辛くて生きてはいけなくなる。のではないだろうか。


●いただきます   2019.01.28
人間が食べるモノは、そのほとんどが「命」であることから、食事の前に「いただきます」と言う。では英語ではなんと言うのだろうか?と、調べてみると「Let us eat」が一般的だそうだ。ただしこれは感謝するとか、祈るというような意味合いではなく、単に促す、とか指示する、というようなニュアンスのようだ。日本人は、食べる=eat、いただく=have、というように解釈しているようなので、Let us haveになるかと思いきや、これでは「持っていこう!」というような意味になる。そもそもeatは、主語が食べ物の名前で使われることが多く、haveは、主語が食事のシチュエーションで使われることが多いようだ。前者は、I eat an apple. 後者は、I eat dinner at 8:00 pm.といった具合だ。さて「いただきます」のほうであるが、泥棒が何かを盗むときにも言うこともあるし、セックスの前にも言うこともある。そういう意味ではeat out(外食する)も、俗語ではオーラルセックスの意味があるので注意しよう。


●イエスかノーか   2019.01.27
国会で野党議員から「イエスかノーでのみ答えて下さい!」という質問があることがある。これに対して答弁はイエスかノーの一言で終わることは絶対にない。ごにょごにょといろんなことを言って、はぐらかす場合がほとんどだ。これは答弁するほうが正直さや実直性に欠けるのではなく、国会で取り上げらるような事象ともなれば、イエスかノーの一言で終わるような、白か黒かで片付けられるような問題ではないのだ。「イエスかノーでのみ答えて下さい!」と言うのは、究極の選択を迫っているようなもので「電気と水道のどちらかを止めなければならないとしたら、どちらを止めますか?」「両親のいずれかを失うとしたら、どちらを選びますか?」というようなものだろう。「イエスかノーでのみ答えて下さい!」と質問したことで、勝ち誇ったような顔をしてはいけない。


●出来るヤツ   2019.01.26
出来るヤツ。の共通点は、①好奇心が旺盛。②ジョークが大好き。③他人の悪口を言わない。④怒らない。の四つだ。①については、世の中の「分からないコト」の多くは、やってみてないから分からないのであって、分からないコト、新しいコト、は何でもやってみようという好奇心が旺盛でなければいけない。②については、打開策が見つからず、八方塞がりになって、みんなが煮詰まって、頭を抱えてるときに、後からじわじわくるような秀逸なジョークを飛ばして、場を明るくする。それだけ余裕があるということだろう。③については、他人な悪口をべらべらべらべらべらべらべらべらと言い続けるヤツはロクなヤツはいない。の、反対だろう。④も同じで、すぐに怒るヤツにロクなヤツはいない。の、反対だ。


●店   2019.01.25
動的コンテンツとはリクエストに応じて、コンテンツを生成するWebコンテンツのことだ。つまり商品一覧からAという商品のページをクリックすると、Aの商品のページが瞬時に自動生成され、見終わって、他のページに移動すると、Aの商品のページは消えて無くなる、というものだ。インターネットが普及して20年で、世の中のホームページのうちの半数が、この動的コンテンツになっている。これに比べてリアルな商店はといえば、未だに全部の商品を店頭に並べて、客が来ない時でも、店員が店の中をうろうろとしている。何という効率の悪さと、時間の無駄だろうか。客が来た時だけ店員が対応すればいい。そしてその店員はロボットでもAIでもバーチャルでも良いだろう。「お客様は買わない時でも、常に店員の態度というものを見ている」とか、ばっかじゃねぇの。インターネットでは20年で対応できたものが、実店舗では800年経ってもできていないということだ。ちなみに鎌倉時代には「店」というものがすでにあったらしい。


●ルーティーン   2019.01.24
ラグビーの五郎丸選手が、プレースキックを蹴る前に両手を組み精神統一を図る動作が話題となり、同時に「ルーティーン」という言葉も流行ったようだ。もともと「ルーティーン (Routine)」は日本語では「ルーティン」「ルーチン」とも訳されていた。いずれも同じ「毎日おこなう決まった手順」という意味であるが、「ルーティーン」というとスポーツ、「ルーティン」というと仕事、というように使い分けられている傾向があるようだ。しかし考えてみると、我々の日々の生活のほんとんどは、この「ルーティン」であるのではないか。朝起きるのも「ルーティン」、飯を食うのも歯を磨くのも「ルーティン」、会社に行って仕事をするのも「ルーティン」、その「ルーティン」の内容をFacebookに投稿するのも「ルーティン」。「ルーティン」と言うと聞こえが良いが、言い方を変えれば「ワンパターン」であり、もっと分かりやすく言えば「単細胞」なのだ。


●放送禁止用語   2019.01.23
NHKは「公共放送」、民放は「商業放送」であることから、放送禁止用語として取り扱う内容について差があり、結果としてNHKの方が「より厳しい」というものになる傾向があるらしい。とはいっても民放の多くは、NHKの定めた放送禁止用語リストをそのまま使うケースが多いようだ。放送禁止用語を民放各局が独自で定めるには、「公序良俗」などの概念の違い、方言による相違、いわゆる「良識」の範囲の考え方、など、非常に多岐に渡る検討も必要となるため、そこには膨大な時間と手間がかかり、結果として流用したほうが早いということなのだろう。しかしここ数十年で放送禁止用語の数が格段に増えたように思える。このままでは「バカ」「アホ」「ハゲ」「デブ」「ブス」なども放送禁止用語になってしまうのではないか。男女差別やステレオタイプになるということで「女」「男」という言葉も使えなくなるかもしれない。そして、日常で使っている言葉の大半が使えなくなり、残った僅かな限られた単語だけで形成された文章は、もしかしたら、ものすごくシンプルで分かりやすい、汎用性の高いものになるかもしれない。


●節約   2019.01.22
世界の新興国全ての人たちが、欧米や日本と同じような生活水準を望んでいるとすれば、世界の水も食料も電気も紙も枯渇することは間違い無い。だからと言って、新興国の人たちに「生活水準を上げるな!」とも言えないし、先進国に「生活水準を下げろ!」とも言えない。しかし残念ながら、先進国が生活水準を下げる意外に方法は無い。下げたくなければ節約するしかない。1990年、すでにドイツでは、ビデオデッキは使わないときには、主電源も切っておくような仕組みになるように法的に義務付けられていた。主電源を切ることで節約できるのは、LED1個分とほんの僅かな微電流だけだ。スズメの涙にも及ばない小さな節約だ。それでも実行することが大切であり、大切であることを意識することが、もっと大切なのだろう。


●写真   2019.01.21
写真は1枚だけ撮るよりも10枚撮ってその中から最も良く撮れている1枚を選んだほうが確実にクオリティが上がる。そして10枚よりも100枚、100枚よりも1000枚、と撮ることでさらにクオリティが上がっていく。写真がデジタルになった昨今では、人は一生のうちにいったい何枚の写真を撮るのだろうか?おそらく万単位の枚数になることだろう。よく、もっとも気に入った自分の写真をFacebookのプロフィールに載せている人がいるが、その写真は1万枚の中の1枚であって、残りの9999枚を含めた平均値が、あなたの本当の顔であるということを忘れてはいけない。写真は「真実」を「写す」ものであるということも。


●性別   2019.01.20
「男らしい」「女らしい」という概念は時代によって変わる。というか最近では、性別に「らしい」と加えることがステレオタイプととられたり、LGBTに対する差別ととられることもある。そして「男らしい」は、ガサツ、デリカシーがない、愚鈍、田舎者、ぶっきらぼう、などを比喩する言葉として使われることもある。また、女性に対して「男らしい」が使われることもある。ソフトボールの上野由岐子、高市早苗元総務大臣、レスリングの伊調馨などがそうだ。吉田沙保里も以前は男らしかったが、最近は「女らしい」CMに出過ぎで男らしさがだいぶ薄れてきた。「男前」の女性では、米倉涼子、黒木メイサ、江角マキコなどがの名前が挙げられるようだ。要するに、時代的には「性別ありき」の前に。まず「パーソナリティありき」で、その人の性別がどうであろうとあまり気にしない、ということになってきているのだろう。


●選挙ポスター(2)   2019.01.19
→昨日の続き。従って、当選が確実とされている候補者のポスターは、前回と同じ写真を使用して、文字の色だけを変えただけ、なんてものもある。今では選挙ポスターの材質はユポという耐候性に優れたものを使うのが一般的だが、ごく稀にコート紙に印刷したものもある。当然のことながら雨で濡れると水を含んでぐちょぐちょになってしまい、写真も無残に歪んだり、破れたりしてしまうのがだ、そのことが当落に及ぼす影響はほとんど無いようでもある。その昔、対立候補者のポスターを剥がして選挙事務所に持っていくと、1枚100円で引き取ってくれるので、中高生の小遣いの収入源になっていた。という行為も、大勢に影響は無かったようである。


●選挙ポスター(1)   2019.01.18
候補者の選挙ポスターは使用している写真が前回と同じだったりもする。ポスターのデザインに使うパワーがあれば、それを駅立ちや桃太郎、ドブ板に使ったほうが確実に票につながる。とはいえポスターの制作費は公的な補助金が支給されるため、地元の印刷屋が潤うということもあり、落選したときに悔いが残らないように、デザインにパワーを使う候補者もいる。そして、Photoshopでの写真加工も普通になってきてはいるものの、まだまだ未熟な地方のフォトショ職人も多いために、シワを消しすぎておまんじゅうみたいな顔になってしまったり、瞳にモイスチャー感を出しすぎて涙ぐんでいる顔になってしまったり、歯を白くしすぎて清原和博みたいになってしまったり、増毛しすぎてゴータマ・シッダールタみたいになってしまったり、無理やり安倍首相と握手をさせたために肘を脱臼したような構図になってしまったり、とB級感満載である。それでも当選しちゃうということは、やはりポスターの占める影響力というのは薄いのであろう。→明日へ続く。


●四股名   2019.01.17
横綱稀勢の里が引退をした。いつも感じていたのだが「読みにくい四股名」である。「きさのさと」だと思っている人も少なくないようである。「勢」を「せ」と読み、「稀」は「少ない」「薄い」「まばら」という意味もある。確かに勢いが足りなかったのかなぁ…、とも思えたりもする。読みにくい四股名」といえば、十両に「若隆景(わかたかかげ)」という力士がいる。NHKのアナウンサーが、いつも噛まないように細心の注意を払いながら十両の結果を読み上げているのが伝わってくる。6文字の中にカ行が4つ、母音のアが4つ連なっている。もはや早口言葉を上回る読みにくさである。インタビューのときにはこれに「〜関(せき)」をつけて呼ばなければいけないので、さらに噛む可能性が高くなる。インタビュアー泣かせの四股名としては「栃乃洋(とちのなだ)」がある。「洋(なだ)」がつく四股名は全て読みにくいのだが、時津洋と栃乃洋は十両で一度対戦があったが、その時の実況アナウンサーは「大変だったぁ…」ということだ。


●駄作   2019.01.16
人間は美味しい物を食べたいのではなく、食べたい物を食べたいのだ。素晴らしい音楽を聞きたいのでなく、聞きたい音楽を聞きたいのだ。面白い漫画を読みたいのではなく、読みたい漫画を読みたいのだ。そして真実を信じるのではなく、信じたいことを信じるのである。だから自分が作ったものがどんなに素晴らしくても、人はその素晴らしさをなかなか認めてはくれない。しかしなかなか認めてもらえないから良いのである。もし、本当に素晴らしい物をすぐに認めることができてしまうと、素晴らしくも何ともないにもかかわらず、作った本人だけが「素晴らしい!」と思い込んでいる駄作であっても、本当は素晴らしい作品である可能性が僅かに残されるからだ。


●鉛筆(2)   2019.01.15
→昨日の続き。ちなみに日本語ではシャープペンシル(シャーペン)は鉛筆(の仲間)に含まれていないが、英語では含まれることもあるとのこと。なのでsharp pencil(シャープペンシル)なのだそうだ。ところがsharp pencilは和製英語だ。1915年、錺(かざり)職人であった早川徳次(のちのシャープ創業者)が、繰出鉛筆の金具を受注したことに始まり、自ら金属製繰出式シャープペンシルを発明、「早川式繰出鉛筆」として実用新案を取得した。早川徳次は早川金属工業研究所(現シャープ)を開業して家電事業へ参入したが、筆記具にちなんだ「シャープ」の名は同社のブランド名や社名として使われるようになったとのこと。鉛筆は鉛筆本体にHBとか2Bと書いてあるが、シャーペンの芯は、一旦ケースから出してしまうと、その濃さと硬さは全く分からなくなる。さらにシャーペンの芯には太さという値が加わり、0.2mm、0.3(0.35)mm、0.4mm、0.5mm、0.7mm、0.9(1.0)mm、1.3mm、2.0mm、の8種類があるそうだ。これに濃さの17種類となると合計136種類となる。そんなにあってどうすんの?とも思うが、それぞれに適した用途というものがあるらしい。


●鉛筆(1)   2019.01.14
鉛筆の色の濃さはH(Hard)又はB(Black)と、一桁の数字によって表されている。JIS(日本工業規格)では、9H、8H、7H、6H、5H、4H、3H、2H、H、F、HB、B、2B、3B、4B、5B、6B、の17種類が規定されている。FはFirmの頭文字で「ひきしまった」という意味とのこと。7B、8B、9B、というのも海外のメーカー製のものではある。鉛筆の芯の主成分は黒鉛と粘土で、粘土の割合を多くして、黒鉛の割合を少なくすると硬い芯になり、粘土の割合を少なくして、黒鉛の割合を多くすると軟らかい芯になるとのこと。この黒鉛と粘土を混ぜて棒状にして1000℃以上で焼き固めて作ってあり、すべて天然の物質で鉛は含まれていないとのこと。ではなぜ「鉛筆」と呼ぶかというと、鉛筆が使われるようになった初期のころはまだ化学知識が未熟であり、黒鉛は鉛の一種だと考えられていたとのこと。「黒鉛」は炭素の結晶であり、「鉛」とは全く別の物質であることは後に知られるようになったが、未だに「鉛筆には鉛が使われている」と信じている人も多いらしい。→明日へ続く。


●食ハラ   2019.01.13
リフォームに来た大工さんに聞いた。「お昼にお茶出しをしましょうか?」すると「全然必要ないですよ。みんな勝手にコンビニ行って好きなものを買ってくるので」とのこと。そして農家などに行くと、食い切れない量の食事と、お菓子や漬物がたくさん出てきて、食うのに苦労する。さらに話が長いので困るとのこと。という話であった。食べ物を提供するのが接待と思っている人が未だにいるらしい。今どき、出されたものは何でも食う、なんて人間は珍しい。病気のための塩分や糖分の制限。スポーツのための食事制限、ダイエットやアレルギーなどなど、人間は一人一人食うものが違うのだ。他人にに無理やり食べさせる行為は「食ハラ」と呼ばれ、これがけっこう横行してるらしい。


●お客様は神様   2019.01.12
セルフレジには店側の誠意や感謝を感じない。って当たり前だ!それを言うならばATMはどうなのよ?金融機関の誠意や感謝を感じない。ETCはどうよ?道路公団の誠意や感謝を感じない。街中に溢れているソフトドリンクの自販機はどうなのよ?誠意や感謝の欠片も感じないではないか。駅の券売機はどうよ?JRの誠意や感謝を感じない。あ、そうか。誠意や感謝を感じたいために券売機でほとんどの用が足りるにもかかわらず緑の窓口に並ぶんだ。誠意や感謝を感じたいためにネットで用が足りるものを、わざわざリアル店舗に買いに行くわけだ。高齢者はモノを買うときに「お金を払うほうが偉い。だから売る方は感謝の気持ちが必要」と思っているらしい。「購買=取引」という概念は無いらしい。未だに三波春夫の影響は大きい。


●年賀状   2019.01.11
大学の授業で生徒の一人が机の上に年賀状を1枚置いていた。「あれ、これ年賀状じゃん。来たの?」「そうなんですよ!来たんですよ!」「そりゃ珍しいね!額に入れて飾っておかないと」「そうします」「ところでここにクジがついているの知ってる?」「え、ホントですか?当たりはいつ分かるんんですか?」「1月15日ごろだったかな。まぁ1枚じゃ当たる確率はすごく低いけどね」「ところで年賀状、出したことある?」「ないです」「嵐がCMやってても?」「ないです」すると隣の席に座っていた生徒が怪訝そうに「何でラインで済むのにお金出すんですか?」「そうだよね。でもスマホが使えない年寄りとかは今でも年賀状出してるんだよ」もはや彼らの親の世代ですら年賀状を出さなくなってきているのだろう。だから家庭内でも年賀状というものを目にする機会もなくなってきているのだろう。


●便りがないのは元気な証拠   2019.01.10
便りがないのは元気な証拠。であるのだが、連絡が滞ると、人は相手のことを悪い方向に考えがちだ。とくに自分がいつでも中心にいて、自分中心で世の中が回っていると思い込んでいる人間ほどこの傾向が強い。そして連絡が無いと「どうして連絡くれないの?心配したじゃない!」とか言うくせに、自分が忙しいときには相手のことはガン無視である。誰でもいつでも相手のことは多少なりとも気にかけながら生活している。便りがないのは元気な証拠。と割り切ってみんな黙々と働いている、ということを理解してほしいものだ。


●産学協働プロジェクト   2019.01.09
地元の大学、地元の民間企業、自治体、地域ボランティア、が一緒に行う産学協働プロジェクト。これが大抵は上手くいかない。というか長続きしない。というか1年で終わる。大学はそのプロジェクトの成果を学会で発表して大学の知名度が上がり受験者が増えること(大学は入試が一番儲かる)、また担当が准教授出会った場合には成果を学会で発表して教授になること、などが目的である。民間企業は言うまでもなく短期であれ中長期であれ「利益」が目的である。利益に繋がらないことが分かると引き潮のように引いていく。自治体は予算が下りたからには実現して結果を出さなければいけない。結果の良し悪しで担当者の報酬が変わることはない。なのでそれほど本気ではやらない。地域ボランティアは定年退職したジィさんが中心である。ジィさんたちは講釈は垂れるが手は動かさない。従って1年やると「もういいだろぅ」という気分に、みんなが自然となっていき、気がつけばそのプロジェクトは消滅しているのであった。


●感動   2019.01.08
食べ物の好き嫌いは3歳までに決まると言われている。初めて食べた美味しさに感動できるのは、せいぜい3歳までということなのだろう。老人がカラオケで歌う曲は、自分たちが若かったころのナツメロばかりだ。好きな作家は若い頃に読んだ本の作者であり、好きな画家は若い頃に見た絵であり、好きな国は若いころに行った国であり、最も印象に残った映画は若い頃に観た映画だ。つまり老人になってから、新たに見聞きしたものは、感動もしなければ印象にも残らないということなのだろう。従って年金生活者になってから、色々なところに旅行に行ったり、演劇や映画や展覧会を観にいっても、あまり意味は無い。というと言い過ぎかもしれないが、少なくとも若いときのような感動を味わうことはできないだろう。だから、老人は自分が感動することを求めるのではなく、次の世代の若者を、いかに感動させるモノを作るか、感動させる機会を与えるか、ということに専念すべきではないのだろうか。


●フリーランスのデザイナーの正月   2019.01.07
フリーランスのデザイナーに正月などは無い。当たり前のハナシであろう。年明けの1月4日、または7日ごろに普通の人は通常業務がスタートする。それまでの間にスタートができるような下準備をしておかなければいけないのが仕事である。というふうに覚悟を決めておかなければいけない。フリーランスのデザイナーには、24時間好きな時間に仕事ができる。通勤が無い分の時間を自由に使える。平日に仕事をしなくても怒られることはない。上司という面倒くさいヤツがいない。などの特権がある。見返りとして「正月が無い」ぐらいは許容範囲であろう。普通に正月に休みたいのであればサラリーマンになることを強くおススメする。


●移動中の電話   2019.01.06
駅でケータイに電話がかかってくる。構内アナウンスや電車の走る音や雑踏でよく聞き取れない。雨の日の幹線道路の歩道を歩いているときにケータイに電話がかかってくる。傘を持つ手と反対の手でケータイに出る。自動車が水を切りながら走る音、傘を打つ雨音、商店のBGMや呼び込みの声などでよく聞き取れない。そして電車やバスの中は基本的にケータイでの通話は禁止である。ということで移動中に電話に出るというのは意外にも難しい。だから若者は基本的に電話には出ないのである。そして相手が外出中に平気で電話を架けて来るのはだいたい年寄りだ。年寄りの話しは前置きが長くて喋り方もゆっくりだ。そして電車やバスの中でも平気で電話をしているのもだいたい年寄りだ。そして「最近の若者は歩きスマホを平気でしやがる」とか言っている。


●15秒CM   2019.01.05
言いたいことは沢山ある。しかし言いたいことを全部言ったとしても、言いたいことを全部聞いてくれる人はいない。だから言いたいこと全部をいかにコンパクトに圧縮してより短時間でよりインプレッシブに相手に伝えるかを考えなければいけない。その究極がテレビの15秒CMであろう。言いたいことが沢山あって困っている人はテレビの15秒CMを参考にすると良い。言いたいことを全部言ってしまうと、聞いてる人は言われた内容を全部忘れてしまう。15秒にまとめれば、そのういちの5秒ぐらいは覚えていてくれるだろう。


●優秀と失敗   2019.01.04
どんなに優秀な研究者や技術者、芸術家であっても、彼らは人間であって神ではない。だから多くの失敗もしてきている。いやむしろ失敗の数が多かったから「優秀」と呼ばれるようになったのだろう。ところがその優秀な人に仕事を依頼するクライアントは「完璧な人」「決して失敗しない人」にオーダーしているという安心感も持って依頼している。しかし実際には、その優秀な人は、そこでも幾つもの失敗をしている。しかしそこはさすがに優秀と呼ばれるだけのことはある。失敗を取り返して、その取り返した方法を自らの経験値として引き出しに蓄えてしまうのである。そしてクライアントにはその失敗した経緯は黙っていて結果だけを見せるのであった。なので、そこで苦労話しを長々とするようであれば、その人は「優秀ではない」ということになる。


●何でも一人で全部やってしまう人   2019.01.03
何でも一人で全部やってしまう人がいる。「あの人は凄い!」とか「彼はスーパーマンだからな」とか言われる。しかし実際には「他人に任せると思い通りの結果にならないので自分でやってしまう」または「思い通りの結果にならないのではないかという非常に強い不安を感じるので自分でやってしまう」のである。だから何でも一人で全部やってしまう凄い人には、優秀な部下がいない。または信頼できるパートナーがいないのであった。


●自分勝手   2019.01.02
田舎のバアちゃんがお地蔵さんに手を合わせた後に「今日のお地蔵様は機嫌が良かったように見えた」と言う。機嫌が良いのはお地蔵さんではなくアンタだろう。犬に話しかけるジイさん「おお、そうかそうか散歩に行きたいのだな」おいおい、犬はただ人が来たんで喜んでいるだけで、散歩に行きたいのはアンタだろ、なぁジイさん。バアちゃんと同じお地蔵さんを見たこそ泥、「や、やばい!お地蔵様がこっちを見て睨んでやがった!」とまあ、人間とは実に自分勝手な生き物だ。


●机の上   2019.01.01
机の上に種類が山となってぐちゃぐちゃにとっ散らかってる人と、机の上にはノーパソが1台あるだけで整然として片付いている人。前者はズボラで無神経でだらし無い人で、後者は几帳面できれい好きでしっかりしている人、かというとそれほどでもない。実は前者と後者の差はほんの僅かなのだ。散らかす速度が片付ける速度を僅かでも上回れば、机の上は段々に散らかっていき、1ヶ月、6ヶ月と時が過ぎれば、ゴニの山となる。逆に片付ける速度が散らかす速度を僅かでも上回れば、机の上は常にキレイな状態が維持されるだけのことだ。

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