2019年4月


●取り消し線   2019.4.30
HTMLタグには<s>または<strike>で「取り消し線」を表示することができる。しかしこの「取り消し線」はHTML4.0から非推奨となっている。HTMLタグには非推奨がいくつかあるが、どうもこの「取り消し線」は若干意味合いが異なるようだ。本来コンピュータとかウェブサイトというのは、データを簡単に更新、書き換えできるものであり、「取り消し線」というのは本来は必要が無い。「取り消し線」というのはアナログの名残であり、その風習を踏襲したもので、アナログであっても本当は書き直したいところを、暫定的に取り消し線というものを使っているとのわけだ。そしてデータを簡単に更新、書き換えできるにもかかわらず、あえて取り消し線を使うというのは、そこに何らかの下心とか魂胆があるということで、正しいデータ表現には相応しくない、という考えもあるようだ。例えば名簿の名前に「取り消し線」が追加されると、脱会した、更迭された、死亡した、というようなニュアンスになる。卒業したり転職したのであれば「取り消し線」は使わず、普通に削除するだろう。


●フォトショで加工   2019.4.29
Photoshopは元々はPhoto(写真)を加工するアプリだ。そして今では大抵のことはPhotoshopで修正できるようになっている。言い換えれば、どんなにダサい写真でも一丁前の写真に変身させることができる。そこで問題になるのは写真撮影時に「どうせフォトショで加工するんだからテキトーでいいや!」という考え方と「フォトショで加工するとはいえ、できるだけクオリティの高い写真を撮っておこう!」という考え方がある。この考え方をはっきりとさせておかないと結果的に無駄な時間をかけることになってしまう。とはいえ大抵は前者の考え方で何とかなってしまうものだ。


●マナー(3)   2019.4.28
→昨日の続き。韓国の金浦空港ロビーの日本人の10人程度の集団が待合室の一角で酒を飲んでいた。そのうちに気分の良くなった1人のジイさんが軍歌を歌い始めた。1曲終わると他のメンバーが拍手をする。ノリノリになったジイさんは次の1曲を大声で歌う。そのジイさんは酔って気分が良くなるといつも軍歌を歌うのか、韓国だから敢えて歌ったのか真意は分からないが、あぁ、こういうことをする日本人もいるんだな、と思った1場面であった。そしてその集団の仲間だと思われない位置まで移動することにした。


●マナー(2)   2019.4.27
→昨日の続き。ドイツで列車の移動中に食堂車でインド人と相席になった。英語もややゆっくり目で日本人が理解するにはちょうど良い速度かもしれなかった。お互いが片言の英語で世間話しをしながら食事をとった。そのインド人はナイフとフォークの使い方もキレイだったし、食べ方もヨーロッパ人と変わらなかった。そして食事を終えると、そのインド人は紙ナプキンで口の周りを拭き、あっという間にクチャクチャクチャと丸めて、こちらのトレイの上にポイっと投げ捨てたのだ。こちらがまだ食べているのにもかかわらずだ。もちろん彼には何の悪気があったわけではない。あぁ、こういうもんなんだな、と思った1場面であった。→明日へ続く。


●マナー(1)   2019.4.26
中国人のクライアント。日本に暮らして20年以上で、頭も良いし常識もあり日本語も流暢であり、普通にビジネスの会話もできる。やや日本語の解釈が異なることもあるが、普通に付き合う分には何の問題もない。そしてその中国人とファミレスで打ち合わせ。途中でドリンクバーのおかわりをとりに席を立って戻ってくると、その中国人は何やら書類に目を通していた。こちらが持参した書類にだ。テーブルの上に置いていたクリアファイルから取り出して勝手に読んでいるのだ。そしてその行為に全く悪びれる様子もない。あぁ、こういうもんなんだな、と思った1場面であった。→明日へ続く。


●池袋暴走事故   2019.4.25
池袋暴走事故で「高齢者の免許返納」の機運が高まっている。しかし交通事故を起こす確率は、80代よりも10代〜20代のほうが高いというデータもあるらしい。もちろん高齢になるに従って、判断能力や運動神経は鈍くなり、認知症を発症する可能性も高くなり、クルマを運転する危険度は高まってくる。しかしそうではない、生きていくためにクルマが必要な高齢者もたくさんいることも確かだろう。ではなぜ高齢者が免許返納のターゲットとなるのか?これは高齢者に対する「いじめ」のような社会的風潮のようにも思える。ではなぜ「いじめ」の対象となるのか?子供の頃のクラスで「いじめ」の対象となっていた生徒の性格を思い出してみよう。内気で暗い性格という生徒の他、積極的ではあるのだが、「他人の言うことを聞かない」「自分のやった行為は無理矢理に正当化する」「いつも威張っている」「頑固で自分の意見を曲げない」「自慢が多い」などなどがあったように思えるのだが…


●楽しみな会議   2019.4.24
会議を楽しみにしている人がいる。1人で考えていても煮詰まってしまって目指すべき方向が見えなくなってしまっても、複数の人間が集まり知恵を出し合うことで解決の糸口が見えてくる過程が楽しいらしいのだ。いやちょっと待て。それは1人で考えたときの煮詰まるまでの沸点が低すぎるのではないかな。煮詰まらずに耐えて、自分で自力で解決の糸口を見つけてから会議に望めば、他の参加者の負担も軽減されるし、会議自体も効率的に進むというものだ。皆さんの周りにもいませんか?何かと会議を開きたがる人。


●自称元アーティスト   2019.4.23
都内某所の繁華街の地下にあるライブハウス。観客の収容人員はマックス30人。経営者は自称元アーティスト。音楽に対するこだわりは強いものがあり、自分の好みにあったライブしかやらない。だから極めてコアな偏ったライブしか行われず聞きに来る客も極めてコアということになり、経営的にも喰っていけるかどうかのギリギリである。都内某所の繁華街の地下にある画廊。展示できる作品数はマックス30点。経営者は自称元アーティスト。絵画に対するこだわりは強いものがあり、自分の好みにあった作品しか展示しない。だから極めてコアな偏った作品点しか行われず見にに来る客も極めてコアということになり、経営的にも喰っていけるかどうかのギリギリである。いずれもヘンなこだわりを捨てれば経営的には上手くいくのだが。またはアーティストに徹してヘンな経営なんかやらなければいいのだが。こういった自称元アーティストは意外に数多く存在する。


●Fetch   2019.4.21
FetchはMac用のFTPツールである。Web関係の仕事をしているMacユーザーのほとんどの人がFetchを使っている。しかしFetchはシェアウェアであり、$10で購入しないと使えない。ただし起動後に21秒待つことでトライアル(試用)で無料で使えるようになる。そうそう頻繁に使うものではないし、一度起動してしまえば、終了するまでは21秒待つことなく連続して使うことができる。ということで、20年近くの間購入しないまま使ってきた。21秒の待ち時間をなくすためではなく、20年もタダで使わせていただいたお礼として、そろそろ$10を払ってもいいかな?とも思っていたのだが、やっぱり止めることにした。理由は、20年の間にサーバー内のファイル数が増え、いずれにしてもサーバーにアクセスしてから10数秒間はアップロードできないのだ。トライアルでの21秒のカウントダウンの間にもサーバー内のファイルを読みに行っているので、$10を払ったとしても実質上の待ち時間は数秒しか短縮できないということになる。そしてサーバー内のファイル数がもっと増えると待ち時間は変わらないということになってしまう。ということでまだ数秒であっても短縮できるうちに支払ってしまおうか、いやいやそれは無いだろう。


●SNS   2019.4.20
SNS対策が必要だ!とか言ってる人はSNSを使っていないことが多い。「SNS」とは非常に広範囲で漠然とした意味だ。フェイスブックとツイッターとインスタとラインでは使い方も使う機会も特性もユーザー層も全く異なる。例えば「スポーツ」「外人」「食べ物」みたいな感じの単語だ。「ダイエットのためにはスポーツがいい」と言ったら「どんなスポーツ?」と聞かれるだろう。「外人は日本語が喋れない」と言ったら「どんな国のどんな人のこと?」と聞かれる。「腹がへったので食べ物が食べたい」と言えば、必ず「何が食べたい?」と聞かれる。なので「SNS対策が必要だ!」と言ったあとに「どのSNSを使うの?」と聞かれたときに答えられるようにしておこう。そのためにはまずは使うことだ。


●DQN   2019.4.19
DQNとは、①自分のことしか考えていない。②すぐに怒る。③偏差値40未満。④食欲性欲睡眠欲に貪欲。⑤先読みができない。⑥平等と権利を主張する。⑦常に不平不満を言っている。⑧勤労学習納税の義務を果たしていない。などなどである。しかしながら人類はみんな平等であり、それぞれに生きる権利が与えられている。「こんな人たちと平等なのかよ!」などと思ってはいけない。中世の「貴族」と「奴隷」が長い時間をかけて、やっとここまできたのだ。もう少し辛抱しよう。といっても我々が生きている間にはDQNと教養のある一般人が全く平等に扱われる社会は実現しないことは確かだ。そもそも社会の中では常にある一定量の割合で存在するらしく、社会全体のレベルを上げなければDQNは減らないらしい。


●自己満足させる   2019.4.17
クライアントからウェブページに使う資料が送られてくる。2〜3日置きに1回、断片的、気まぐれ的、五月雨式、にである。それが写真であったり、文章であったりもする。文章の場合、それがウェブページに使うものなのか、メール本文の一部なのか判別できないものもある。「急いでいる」と言っているわりに、資料の出し方は極めて「ゆっくり」である。ウェブページを作ったり更新したりするということが、いまだに道楽や趣味の延長線上であると思っている人が多いということのようだ。道楽や趣味なので、他人から急かされたり、催促されたりはしたくないのだろう。そして「自己満足させる」という条件を満たしてあげないといけない。だからアクセス数とかは全く関係なかったりもする。


●おばさん乗り   2019.4.16
なぜ、おばさんは自転車に乗るとき、ペダルに片脚をかけてもう片方の脚で2~3回地面を蹴って乗るのだろうか?またちょっとでも止まる時に、必ず降りるのはなぜだろうか?そしてこの乗り方は男は絶対にやらないし、若い女性もやらない。一説によれば「自転車は止まってる状態よりも走り出した状態の方がバランスが安定する」からだそうだ。だったらスクーターも原チャリも走らせてから飛び乗ればいいのではないか?また、ちょっとでも止まる時に必ず降りるのは「自転車カゴいっぱいに買い物の荷物など入れてるため」だそうだ。本当にそうなのだろうか。クルマが全く走っていない道路を渡るときでも「必ずボタン式信号を押す」のと共通する、男には分からない、おばさんならではの特別の謎の理由があるのではないだろうか。


●早く言えよ!   2019.4.15
20年前から何度も取り上げている困ったクライアント。ホームページの仕様書、企画書、トップページのサンプルが出来て、これらを提示してコメントや意見や感想を求めても何も言わない。1週間待っても1ヶ月待っても何〜んにも言わない。仕方がないので了承下とみなし作業を進める。そして完成したホームページを見て、「ここはこうしたほうがいい」「こんなふうにしたらどうか?」って、「早く言えよ!」って話しだ。リビングのリフォームをするため平面図やパース図、見取り図まで見せたはずなのに、完成してから「やっぱ和室にしたかった」って、今からできるわけないし、完全に一から作り直しになるだろ!ってそんなホームページへの要求をしてくるのがリフォーム屋さんだったりもする。


●何が言いたのか分からない   2019.4.14
営業職の人が作ったホームページ。とにかくバナーが多い。文字がデカい。色数が多すぎ。動画やスライドショーがやたらと動く。形容すると「賑やか」「忙しい」「五月蝿い」「落ち着きがない」「盛り沢山」「欲張り」「押しつけがましい」「ごった煮」「くどい」「何が言いたいのか分からない」などになる。技術職の人が作ったホームページ。とにかく文字が多い。画像が少ない。色気がない。やたらと理屈っぽい。形容すると「退屈」「殺伐」「殺風景」「味気ない」「それで?」「何が言いたいのか分からない」などになる。共通しているのは「何が言いたいのか分からない」ということ。何が言いたいのか分からせるということは思った以上に難しいのであった。


●知名度(2)   2019.4.13
昨日の続き。→本を書くだけの国語力を持っている人は少ない、ということを本を書いたことのない多くの人は知らない。本だけではない。例えば1枚の絵画を買うとする。もちろん有名な画家の作品はものすごく高い。そこで無名な画家の作品を買うことになるのだが、そこでの判断基準は「どこで買ったか」ということになる。名も無い地方の画廊ではダメなのだ。「銀座三越」とか「日本橋高島屋」であれば同じ絵画でも価値が変わるのだ。そもそも一般消費者の中で本当の絵画の価値が分かるような人間はほんの僅かなのだ。だから芸能人の絵画展には多くの人が見に来て、作品も高価で取り引きされたりもする。その作品のクオリティが美大に合格するには遠く及ばなかったとしてもだ。そして全く同じ作品を一般人が描いたとすれば、そこには何の価値も無い、ということになる。


●知名度(1)   2019.4.12
非常にスキルの高いゴーストライターに聞いてみた。「自分の名前で著書を出してもいいのでは?」と。しかし「それでは絶対に売れるわけがないのでゴーストをやっている」とのこと。一般消費者が求めているのは質の高い文章でも、オリジナリティーのある作品でも、ユニークな内容でもない。有名な人が書いたかどうか、である。有名であれば小説家でもライターでもある必要は無い。芸能人でもアイドルでも歌手でもスポーツ選手でも良いのだ。そしてそういった人たちのほとんどは本を書くほどの文章力はない。というか文章力があったとしても本を書いているほどの時間はない。それで代わりに書いてあげるのがゴーストライターということになる。そして多くの一般消費者は、それを「本人が書いたもの」と思って読んでいる。普通に考えれば、今までプロ野球のピッチャーだった人間が、突然「本を書く」などということができるはずもないのだが。→明日へ続く。


●損   2019.4.11
自分が損をすることは絶対にやらないが、得をすると思ったことは積極的にやるヤツがいる。と、その前に「損」とは何か?をよく考えてみる必要があるだろう。損をするということは、お金を失う、辛い思いをする、無駄な時間を費やす、やるんじゃなかったと後悔する、というようなことだろう。しかしそこで損をしたおかげで、次回からは損をしないという経験値が増えたという意味では、決して損をしたとは言えないはずである。損の多くは一時的なものであり、一生というスパンでみれば、その多くが将来的には得につながるものなので、損をすることにビビって何事も避けて通るようなことはしないようにしよう。しかしパチンコで被った「損」は、決して将来的な「得」として戻ってこないということも理解しておこう。


●主義   2019.4.10
「私は実際に本物を見てから買う主義なのでインターネットでの買い物はしない」とか言っている人。たかだか買い物に主義など必要ないだろう。アカウントを取得したりカード番号を打ち込んだりお届け先住所を入力したすることのできない原始人が主義という言葉を使って誤魔化しているだけだ。「私はメールは使わない主義だ」などと言っている人間は、ほぼ間違いなく「使わない」のではなく「使えない」のだ。「私は飛行機には乗らない主義だ」などと言っている人間は、ほぼ間違いなくケツの穴が針の穴くらいに小さい臆病者である。


●くクビにする   2019.4.09
経営者が雇用者を理由もなくクビにすることは法律上できない。しかし経営者側にとって「いるだけでマイナス」という雇用者もいる。勤務態度もそれなりに真面目で、それなりの成果も出している。しかし勤務年数が長いので給料は高い。つまり経営者側にとってのコスパが低いということだ。クビにすれば人件費が浮く。代わりに若い人間を雇ってもお釣りがくる。肩叩きをしたところで、こういう人間に限って手を挙げない。自分が仕事ができないことを本能的に察して警戒感を強めるからだ。ではどうするのか?ということを大手企業の人事部の人に聞いたことがある。すると「両親や家族を使って、辞めざるを得ない方向にじわじわと追い詰めていく」なのだそうだ。さらに「上手くいかなかったことはない」そうだ。会社というのは基本的にブラックな場所だったのであった。


●葬式   2019.4.08
葬式に集まる人間の数によって、その故人の偉大さが分かる、と言われている。確かにあまり面識がなくても尊敬できる人が死んだとなれば駆けつけたくなるであろう。しかし最近では、社会的に大した実績も残さずに、地味で目立たず貧乏で一人暮らしだった人間が死んだときでも、どこからともなく、ぞろぞろと人は集まってくるようになったようだ。出席すればタダで飲み食いができるし、香典を千円置いてきても、あとで三千円分の商品券が送られてきたりもする。また相続権が発生するであろう故人とは一度も会ったことなない隠し子とか必ず来るようだ。いずれにしても人が死ねば、カネは必ず動くということであり、カネが動けば必ずその一部はどこかに溢れるということだろう。


●電話に出ない   2019.4.07
黒電話の時代は電話に出るまでは誰から架かってきたのか分からなかった。それがケータイになってからは電話に出る前に誰から架かってきたのかが分かる。「最近の若者は電話に出ない!」というのも当たり前のハナシである。電話に出たく無い相手はたくさんいるのだ。借金返済の催促、好きでもない異性、いつも長くてつまらないハナシしかしないやつ、余計なお世話なやつ、などなど誰でも思い当たるやつがいることだろう。逆にこちらから電話を架けてもすぐに出ないやつもいる。例えばこちらに対して何かに怒っていて、こちらが謝罪の電話をしてもすぐには出ないで、何度も架けさせることがお仕置きみたいに思っている心の小さいやつなどもいる。だから黒電話の時代には「コミュニケーション」という言葉はあまり必要なかった。架かってくれば出て話すという単純な情報のやりとりしかなかったからだ。めんどくさい世の中になったものだ。


●CG否定論者(2)   2019.4.06
昨日の続き→。例えば普通のCG作品でも、最初は紙に描いた線図をスキャンしてPhotoshopで色付けをするやり方もある。油彩画の場合でも紙に描いた線図をスキャンしてデータ化し、キャンパスに印刷して油彩で描いて仕上げるという方法もある。紙に描いた下絵をキャンパスに写して描くという非常に面倒な作業を省くためである。また、ある程度CGで色付けをしておいて最後だけ油絵の具で仕上げるという方法もある。さらに、ほとんどをCGで描いておいて、最後にマチュエール感を出すためだけに油絵の具を使う場合もある。というととは写真をPhotoshopの「油彩画フィルター」で加工してキャンパスに印刷したあとにマチュエール感を油絵の具で追加して額装してしまえば素人目には立派な油絵である。というように油彩画を1枚描く場合でも、その過程の中にCGが含まれているということになる。それを「ズルイ!」とか「手抜きだ!」と言う前に、とりあえず自分でやってみろ!ということだ。話はそれからだ。


●CG否定論者(1)   2019.4.05
CG(コンピューターグラフィックス)を認めない人は多い。そしてその人たちは間違いなくCGをやったことなない、CGができない人たちである。手で描いた作品は「ちゃんとした作品」であり、CGはコンピュータが描いた「ちゃんとしていない作品」であるという考えだ。そしてそこには自分がCGができないという僻みやっかみも大いに含まれている。そしてCG否定論者に共通しているのは、「アナログでも大した絵は描けない」ということだ。優れた作品を目指すのであれば、その過程がデジタルであろうがアナログであろうが厭わないなずである。そして例えば油彩画(油絵)を1枚描く場合でも、その過程の中にCGが含まれているということを彼らは知らない。→明日へ続く。


●色が変わると新鮮に見える   2019.4.04
A社の製品は赤い。その赤い製品がたくさん売れた。たくさん売れるのでたくさん作る。なのでA社の工場の製造ラインでは大量の赤い製品が毎日流れている。それでも製品が作ったそばから売れていくので、A社は工場を拡張することにした。拡張した工場では製造に余裕ができきたのでOEM生産(他社ブランドの製品を製造すること)も行うことにした。そしてA社の製造ラインにはB社の製品も流れることになった。B社の製品は青い色をしている。そのB社の製品を見た製造ラインで働くA社の係長は、B社の製品を片手にA社のデザイン部に直談判に行った。「我が社もこのB社のような新しいデザインの製品をデザインすべきだ!」もちろんこんなことは相手にされない。B社のデザインが特に新しいわけではない。係長は今まで何年もの間、製造ラインを流れる赤い製品を毎日毎日眺めていたので、突然流れ始めた青い製品が、ものすごく新鮮で新しく見えただけなのであった。


●他人から指示がなければ何もしない   2019.4.03
他人から指示がなければ何もしない。自分の意見を言われても「ありません」と答える。そもそもが生きているコンセプトが無い。それでも他人のやったことに文句だけはつける。そんな若者が増えているとお嘆きの方へ。そんな若者は増えているのではなく昔からたくさんいた。そしてその若者たちは今は若者ではなくなっているので、若者と限定はできない。そして他人から指示がなければ何もしないという人にも適職がある。兵隊だ。


●見ない人は見ない   2019.4.02
NHKの大河ドラマの視聴率が下がっているそうだ。老人はテレビを見るはずであるのだが、その老人にも少しずつネット世代が含まれてくるはずだ。ネット世代は老人であったとしてもテレビは見ない。また後期高齢者の中には、テレビがうるさく感じる、テレビは騒々しい、テレビは何言ってるか分からない、といった理由で見なくなる人もいるそうだ。番組が面白いかどうか以前の問題が色々とあるのだから、一生懸命に質の高い番組を作ろうとする努力は無駄なようだ。面白いかどうか、質が高いかどうか、ということとは関係なく、「見る人は見る」「見ない人は見ない」ということだけのようだ。


●写真の著作権(2)   2019.4.01
昨日の続き→。フリー素材サイトに掲載してある写真は、あくまでも撮影者が著作権を放棄して「自由に使っていいですよ」と言っているのであり、その撮影という行為に違法性があるかどうかは、フリー素材サイト側が一般的に感知していない。それが肖像権の侵害の可能性があれば、ぱっと見で分かるが、例えば博物館や美術館の中の写真は、撮影が許可されているものかどうかは写真を見ただけでは分からない。また公園や公共施設、スポーツ施設などでも、安全管理やスポンサーとの関係など様々な理由で撮影が禁止されている場所も多い。仮に風景のかなたに写っている看板に書いてある会社名にでも「その会社の許可をとったの?」というツッコミもできる。もはや世界中のどんなところでシャッターを切っても、無理やりに理由をつければ、なんらかの「違法」なものになってしまうことだろう。



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