▼天声人誤

●パソコン

パソコン初心者は色々な予期せぬ勘違いや思わぬ行動をするものだ。「ダブルクリックしてください」と言ったらマウスの左右のボタンを人差し指と中指で同時に押す人などがそうだ。

プロバイダーの事務所に自分のノートPCを持って来て何やら怒っている。どうやらパソコンが壊れたから診て欲しいとのことであるのだが、そもそもプロバイダーに持ってくることが間違いでもある。さらに壊れた内容というのはもっと間違っていた。Yahoo!Japanのトップページのデザインが何もしていないのに勝手に変わってしまって使いづらくなったというものだ。

電話での応対。「マイドキュメントが開いていない」と言っている。マイドキュメントのフォルダのアイコンをダブルクリックすれば普通はマイドキュメントが開くものだ。だから最初は開いていない。ところが最初から開いていないとおかしい!と言い張る。そんなことはないとよくよく話を聞いてみると、マイドキュメントのフォルダのアイコンが通常のフォルダアイコンになってしまったらしいのだ。つまりマイドキュメントのフォルダのアイコンは、フォルダが半開きになって中から書類が少し見えているようなデザインなのだが、それがそのアイコンではないものになってしまったということだった。

同じく電話で。「ラジカセを買ってきてプリンターの隣に置いたらプリンターが動かなくなってしまった」というもの。どうやらラジカセが発する電波のようなものがプリンターに悪影響を及ぼしたため、動かなくなってしまったと思ったらしい。「プリンターの位置とか動かしましたか?」「はい。ちょっと動かしました。」「その時にコードが緩んだりしてるかもしれないので、ちゃんと差さってるとどうか確認してみてください。」「あ、そうですか。

ちょっとそのまま待っててください。」と言い、電話を離れ、プリンターのそばまでいったもよう。ちょっとすると電話口の遠くのほうから「ひ〜こ、ひ〜こ」とプリンターの動く音が聞こえ始め、同時にばたばたと電話口まで走って来る足音が聞こえ、「あ、直りました!」

米山巌(55歳)は某中堅建築会社の営業部長である。正直言ってパソコンは全く分からない。なんとか定年まではパソコンとかインターネットなどという分けの分からんものとは係わらずに生きていこうかと思ってはいたのだが、どうやらそういうわけにも行かなくなってきた。社内の会議などでは「これからはITの時代なので、やはりホームページを通じてお客様とのコミュニケーションを大事にしていかなくてはいけない。」などと言わなければいけない。けっこう冷や汗ものだ。突っ込んだ質問をされたらどうしよう、と思いつつもなんとか「オレに質問するなと!」と目で威嚇しながら乗り切ってきたのだ。しかし最近では自分の発言に信憑性がないことを見抜かれているという空気を肌で感じるようになったのだ。

ある日ホームページを制作依頼していた業者がプロトタイプを持参してきた。営業部長としてもその場に立ち合わなければいけない。一通り説明を聞いた後、若手社員が色々と質問し、業者側もそれに淀みなくすらすらと答えていた。「いかん。これは敵の思い通りだ。」と米山は直感した。言っている内容は全く分からないが、打合わせのペースとしては完全に業者側が主導権を握っている。このままではナメられるしボラれる。と、思ったときに「部長さんいかがでしょう?」と業者がノートパソコンを米山の方に向けた。「まずい!」と思ったが、あえてゆっくり余裕の表情を見繕って画面を覗き込んだ。はっきり言って何が何だかさっぱり分からない。

しかし何も質問しないわけにはいかない。仕方なく「こう、なにか当社が設計したCADの図面とかは載ってないのかね?」「あ、それはそこのsolutionのところです。」「ん、?ソリュー…何だ?」「あ、ここです。」隣の鈴木俊輔(入社2年目25歳)がボタンを指差した。助かった…。

こいつの評価は見直そうと思った。「あ、これをクリップすればいいのかね?」「クリップじゃなくてクリックですよ!やだなぁ部長!アーハッハッハッハ…」と鈴木。『このやろー、露骨に指摘しやがって。やっぱり評価は考え直そう』と、ムカつく気分を抑えて何とか平静を装いそのボタンをクリックしようとしたのだがなぜか反応しない。するとまた鈴木「あ、部長!マウスのボタン押したままですよ。それにそんなに強くマウスを押し付けたんじゃ動かないですよ!」とまたまた露骨なこと言いやがって、と思った途端、鈴木はマウスを奪い取って自分でクリックした。

なんとか挽回しなければ、このままではIT音痴がバレバレだ。そうだ!オレは管理職なんだから自分でパソコンの操作は出来なくても、概念と理論だけは理解しているところをアピールしよう。

と思った米山はこう尋ねた「CEOはどうかね?」唖然とする業者。「CEOというと御社の最高責任者、つまり会長さんのことですか?一応Aboutusのトップに掲載はしておりますが…」「あ、いやそうではなく、捜すと上のほうに出てくるという‥」「はい。会長さんは一番上に掲載してました、特に捜さなくても見つかりますが…」しばし沈黙の後、鈴木が言った「あ"ー分かった!部長が仰ってるのはSEOのことですね。CEOじゃなくてSEO、エス・イー・オー!ですよエス・イー・オー!」『何度も言うなこのヤロ〜』と思った瞬間、今度は業者の若いやつが「な〜〜〜〜んだ、SEOのことですか、ハハハハ…」と小馬鹿にしたような笑い。

そして鈴木のほうを向いて(この時点で「このおっさんは話分かってないし」という表情がありありと)「一応META情報はいただいた原稿の中なら抜粋して入れてありますのでご確認ください。Yahoo!についてはビジネスエクスプレスをご検討ください。Googleのほうは公開後URLだけは当社のほうで登録しておきます。現在このカテゴリーは他にもSEO対策を行っているサイトも多く……」とまた分けの分からないことを話し始めた。

結局この打合わせは、米山のCEO発言以降は米山の存在を全員が無視したかたちで進み、最後に帰るときも業者は鈴木のほうだけに頭を下げた。このままではいかん。まずは鈴木に説教しよう。

いや、待てよ、あいつのことだ、オレの言うことは素直に一通り神妙な顔して聞いた後に絶対に言うだろう。「でも部長。部長ももっとインターネットのこと勉強しなきゃダメっすよ。部長も言ってるじゃないっすか『基礎教養が無いのは恥だ!』って。今ではパソコンは基礎中の基礎ですよ。リテラシーって言うじゃないですか。リ・テ・ラ・シ・イ!」なにがリテラシーだ、あの野郎!と思って、結局説教は無し。同時に鈴木が言うであろうと想像したことに自分でも納得したりもして、やはり何とかしなければいけないと思った。

とりあえずはパソコン教室に通ってみようと決断した。大きな決断だ。さすがオレだ。いざとなれば決断できるじゃないか。などと思いつつパソコン教室を捜すことにした。とりあえずは息子に聞いてみたのだが「なんだオヤジ、パソコンやるの。パソコン教室ならインターネットで捜せばいっくらでも出てくるよ。」このやろう、オレがインターネットできないの知ってて言ってやがるな!と思った途端「ケータイで捜せばいいじゃん。」と息子。このやろ〜、オレはケータイは電話しか使ってないの知ってて…。

そうだ、電話帳で調べよう「かあさん、電話帳持ってきてくれ!」「あら。電話帳は無いわよ。誰も使わないしガサばるから一昨年ぐらいから、いらないって断ってるわよ。」「なんで勝手に断ったんだ!」「だってお父さんだって使ってないでしょ。みんなケータイ持ってるんだしいらないでしょう。」「もういい!」なんたることだ。いつ使うかわからんものはとっておけ!ってもんだ、と思ったとき「いつ使うかわからんものはとっておくなって、お父さん言ったじゃない。」

仕方なく自分の足で捜すことにした。駅前の目立つところはやめよう。社員に見つかったら一気に噂が広まる。パソコンができないからパソコン教室に通っているんだと。それに通った末に結局できなかったら、いや、そんなことはない。あんな鈴木のようなアホでもできるんだから、オレが本気出せば絶対に出来るようになる。いや、でも万が一ということもある。やはり会社にはバレないようにしておこう。

そして駅からちょっと外れた住宅街の中に、個人でやっているパソコン教室を見つけて、そこに通うことにした。先生は50歳過ぎの女性で、初心者にも分かりやすいように親切丁寧に教えてくれた。2ヶ月ほど通い、とりあえずはワードとエクセルの基本的なところは何とか分かるようになった。イーメイルもやった。基本的なメイルの送信や受信も覚えた。思った通りだ。本気でやればこんなもんだ。どーだ、ざまあ見ろ。いつか社内でこの技を披露してみんなをあっと言わせてやろう!

そしてついにそのあっと言わせる時が来た。「部長宛にメール来てますが、また、プリントアウトして持っていきますか?」と、ここで今までは「じゃ、頼む。」と答えていたのだが今日は違うぞ!「いや、自分で読む。どのマシンだ?」と答えた瞬間、社員全員が部長の方を見つめ、ある者は作業の手を止め、ある者は電話口を手で塞ぎ、米山に注目する…はずだったが、あれ?だれも注目してない。そうか、気になるのだが態度に出さないようにしているんだな。わかってるぞ、みんな普通に仕事する振りして耳だけはダンボになってやがるな。

席を立って呼ばれたほうに向かって歩き、もう一度聞いた「どのマシンだ?」すると、傍らで電話していた鈴木が隣のデスクの上にあるマシンを無造作にボールペンで差すと、すぐに反対を向いて電話の続きを話し始めた。相変わらず態度の悪いヤツだ、と思いつつも、「あ、これか。」と差されたマシンの前に座った。

ちょっと旧式で厚手のWindows98のノートで、外装のあちこちにファンシー系のシールがくっついている。昨年退社した女子社員が使っていたものだ。当初は彼女が営業部のメールを一手に引き受けていたのだ。そのころ送信した代表メルアドに、いまでも稀にメールが来る事がある。

ちょっと緊張して静かにツバを飲み込み画面を見た。『オウトルックエキス…なんとか。ほら、封筒の絵に矢印がついてるやつ。。えーと。えーと。』と、これがいくら捜しても無い。

『いやいや焦ってはいけない。無いときはどうすんだ?そうだ、すべてのプログラムだ。えーと全てのプログラムはと。。』と、これを開いてみると、そこには見たことも無いような名前がずら〜〜〜っと出て来た。退職した女子社員が勝手にインストールしたフリーのゲームやらどうでもいいソフトが満載だったのだ。『う、なんじゃこりゃ?この中から捜してたんじゃ時間がかかってしまう。パソコンの操作がのろいオッサンと思われてしまう。そうだ!検索だ!』と思い付いた米山は検索を試みる。『えーと、ここに文字を入れるんだったな。』と必死で思い出しながら文字を入力しようと思ったところが、英数でしか入力できない。あの、いつもの右下にある小さい四角で切り替えるはずなのだが、その小さい四角が無い!こいつは困った。

このままではどうにもならない。そうだ、確かパソコン教室の先生は「日本語と英語の変換はマシンによっ て違うこともあるので、そのパソコンを使っている人に聞いちゃったほうが早い場合もあります。」と言っていたではないか。これは聞いても恥ずかしくはないのだ。意を決して電話中の鈴木の方を叩いて「すまん、日本語にするには…」と言い終わらないうちに鈴木はキーボードに片手を伸ばしてちょいと押した。そしてすぐさま電話に戻った。『くそ!簡単に対応しやがって!』と怒りを抑えつつキーボードを叩くと確かに日本語になっていた。

やっと入力窓に検索すべきファイル名を打ち込んで検索ボタンを押したところが、何度やっても「該当するファイル:0件」としか表示されない。やばい。すでに5分は経過しているだろう。

メイルを開くまでにこんなに時間がかかてしまうと、やっぱりパソコンはできないオヤジと思われてしまう。いやいや落ち着け。時間はこの際気にしなくてもいいだろう。とにかく自力でメイルを読むことだけに専念しよう。焦ることはない。

と思ったところに電話の終わった鈴木が唐突にパソコンの画面を覗き込んだ。そして「ぶっちょう!これじゃ出るわけないじゃないですか!

オウトルックエクスプスってなんですか!?」と大声で言いやがった。それを聞いた社員が集まってきて「え、何何?」「どれどれ。」社員が集まるのを待っていたかのように鈴木が言った「それに部長、英数で検索しなきゃだめですよ!」と言うと、自称オタクの山辺愛子が言った。「ぐふっ。オウトルックエクスプスって超ウケルよね。オウトルック、オウトルック、いかんツボッた。ぐふふふ、ぐふふふ。」と笑いながら席に戻っていった。

そして自称元ヤンキーの奥田智代が言った。「っていうかさ〜ぁ。このマシンアウトルック入ってねぇよ。だいぶ前に重いから捨てたしぃ。」米山は完全に恥っさらし状態だったが、この「入ってない」という言葉で少し安心した。怒りと恥ずかしさを我慢して平静を装って言った。

「あ、なんだ。オレは無いものを捜していたんだな。そっかそっか。それじゃ見つかるわけないな。」「あったとしても見つかってなっかたしぃ。」本当のことを奥田が言った。「ていうか、部長は何をしたいわけ?」鈴木が言った。「オウトルック、オウトルック…」聞こえるか聞こえないかの小さな声で遠くの席から山辺。「っていうか、部長、パソコン向いてないんじゃない?」とまた奥田が本当のことを言った。

米山もついに切れた!「おまえらいい加減にしろ!パソコンができなくて何が悪い!」と怒鳴る。これを聞いた経理の自称優秀リーマンの田中秋宏が言った。「そりゃ、字が書けなくて何が悪いって言っているようなもので。」間髪入れずに鈴木が「リテラシー・リテラシー」続いて奥田、「切れても何も改善しねぇよ。」「エクスプス、エクスプス、ぐふぐふ」と山辺。そして米山「もういい!どれだメイルは!」「滅入る滅入る…ふふふ」と山辺。鈴木が露骨に迷惑そうな顔をしながら画面のスミにあったアイコンをボールペンで差す。「これこれ。」「おおー、懐かしい!」と田中。 今にも脳みそが大爆発しそうになって顔面を真っ赤にした米山はその見たことも無いアイコンをクリックした。すると画面にはピンクのクマが出て来てまるで米山を小馬鹿にするように踊り始めた。「きさまら!騙しやがったな!」怒り心頭の米山はそのノートPCを床に叩き付けた。

液晶が割れてフタにひびが入った。それでもおさまらない米山は「そんなにパソコンができないことが面白いのか!」すでにグロッキー状態のノートPCを何度も踏みつけた。

足で踏むだけではおさまらず、近くに置いてあったステンレス製の建材サンプル(梁のサンプル)で何度も叩いた。

「というかさぁ。そのマシンの顧客データが全部入ってたんだけど。」と田中。「バックアップは?」鈴木が聞く。「経理のPCをリカバリして、バックアップをそのノートにとってあったんで、さっき借りに来たんだけど。」「ありゃ、じゃあ全滅ですが。」と鈴木。「ついでに言えば給与データもそこに入ってたし。」と田中。「ちゅーことは、もうあんなに踏まれて、ハードディスクも割れてるし、今月は給料無しっすか?」と奥田。 叩き疲れて仁王立ちになったままの米山が、荒い息を吐きながら低い声で言った。「お、おまえら、なんでそんなにパソコンできるんだ?」奥田が答える「ぶちょうのばあいさぁ、パソコンのできるオッサンと思われたいだけじゃん。」田中が補足する。 「その動機が不純ってことですね。」鈴木が続く。「だから気ばっかり焦って身につかない。」山辺が締める。「プライド、沽券、自尊心、みんな捨てちゃわないとね。オウトルックみたいにね。ぐふぐふ。。。」
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