2007年3月
KDDIから勧誘の電話。「現在NTT東日本さんを使われているようですが、KDDIにしますと月々のお支払いが○○円と大変お得になります。」と始まり「インターネットはお使いですか?」と聞かれたので、使用状況や契約しているプロバイダーの名前を言うと「あ、それでは対応できておりませんので…」と急に消極的に。「ま、でもケータイはau使ってますよ」と言うと、「そうですか。KDDIにしていただくと請求書も1枚で済むようになるんですよ。」「あ、そう。じゃケータイもDocomoに代えようか。」
あまりに多くの人を対象にアンケートをとると、その結果は極めてありふれたつまらないものになる。あまりに多くの人が参加するSNSやコミュニティーサイトの書込みはも、同様にありふれたつまらないものが相対的に増えてくる。こういった現象を衆愚化と言う。
しかしこの衆愚化を避けるために表立った発言をすると、それは不公平、不平等ということになり、非難の対象となる可能性も高い。そこでもっと当たりの軟らかい言葉である「大衆化」というものが一時期よく遣われたのだが、世の中の流れとして「大衆」というものがあまり見かけられなくなったので、また衆愚化という言葉がぽつぽつと使われるようになってきたようだ。
プロバイダーとの契約内容と現在そのプロバイダーが提供している最新のサービスを比較してみよう。「あ"ー!こんなに安くなってる!」ということがある。数年前に契約したままのサービスと同等の内容のものが、ここ1年間で大幅に値下げされてる、または価格はそのままでも内容が大幅にアップし、多くのオプションが含めれていたりもする。
「知らないあいだに、こんなに余分な費用を払わされていた!」とい気分にもなるのだが、実は「知らないあいだ」ではなく、ほとんどの場合、そのサービス改定の通知は個別にメールされているのだ。
ただし、これだけスパムや迷惑メールが多いと、ほとんどの人はそのメールを読まない。であろうことも見越しての価格設定ではないのか?とも思われる。逆に全ての規約者が一斉にサービス変更依頼をしたら裁ききれないだろう。
しかし、そうはいっても色々と細かい対策をすることで効果があることが分かり、それが噂となり広がり、再びSEOが話題となったのが2004年頃。実際に細かな対策を可能な限り施すことで検索結果の上位を獲得できるという事例も多くあった。しかし常にGoogleではアルゴリズムの改善とSEOテクニックに左右されないコンテンツ重視の検索結果を目指してきたわけであり、こういったSEOテクニックだけで上位に来たサイトは、その地位を保てる期間は決して長くはなかった。正攻法でじわじわと上位を上げてきたサイトは、そう簡単に順位を下げることはなかったが、即席上位は短命でもあったわけだ。Googleのシナリオ通りに。
1996頃からだろうか。当時のAltavista、excite、infoseekといった検索エンジンでは、そのアルゴリズムが単純であったために、普通に 検索するとアンダーグラウンドのサイトが上位を占めた。そうならないために検索サイト側も色々と対策を施し、しばらくの間、イタチごっこが続いたわけだ。つまりこのころからアンダーグラウンドのサイト運営者は必死でSEO対策をしていたということになる。
しかし1998年に、今までとは比べ物にならないほど高度なアルゴリズムを引っさげて登場したのがGoogleである。このGoogle相手では、それまでの単純なSEO対策は通用しなくなり、アンダーグラウンドのサイト運営者の多くがギブアップした。
日本人はSEOが大好きだ。しかし普通に考えてみよう。GoogleでもYahoo!でも、その検索アルゴリズムは内部の人間でない限りは分からないはずだ。巷で言われているSEO対策は、あくまでも「想像」「過去の効果があった実例」「思い込み」である。公式に発表されたものではないのだ。にもかかわらず、相も変わらず真面目な顔して「こうしなくてはいけない」というようにその対策を施しているウェブ制作者も少なくないようだ。その効果の信憑性の無さを知った上で金儲けのためにやっているのならまだ良いのだが、本当に信じてやっている人も少なくないようだ。
これは確実にその方向に流れているようだ。ここ数年、明らかに今までのキーワードを埋め込むという作業の効果が薄れ、逆に全くSEO対策を施していないサイトでも、そのコンテンツが充実し、客観的に見て有意義なサイトであれば、検索結果の上位に来るケースが増えている。
これは考えて見れば当たり前のことで、そもそもGoogleはSEOテクニックに左右されないコンテンツ重視の検索結果を目指してきたわけだ。 にもかかわらず、相も変わらず真面目な顔してキーワードをせっせと埋め込んでいるウェブ制作者も少なくないようだ。そんなヒマがあったら、その分をコンテンツの充実に使うべきであろう。
効率化することで今まで10時間かかっていた仕事が8時間で終わったとする。それで同じ報酬が得られればラッキーというもの。しかしこれは本当の効率化ではない。他に追従を許さない画期的な技術や能力を使っての効率化であれば別がだ、既成品の組合せの効率化であればいつかは誰かが同じことをしてくるはず。
残りの2時間でのプラスαを追加して同じ価格の物をクライアントに提供するのが本当の効率化であり、それが自身のスキルアップにもなるというもの。楽して儲けよう、なんてことを考えている限りは本当の効率化は実現できない。
ウェブ制作ではMTが地主だ。ライセンスという名の小作人用作付けスペースを貸し与え自由に農作物を作らせる。これは素人でも簡単に農作物が出来ると言う家庭菜園のようなもの。ところがウェブ制作を本業をする安直な小作人も「簡単に見栄えのいいサイトか作れる」ということでここを利用し、結局は素人と代わり映えのしないサイトを作る事で自らのスキル評価を下げ、価格競争に巻き込まれてしまうということになる。 MTを提供している会社名を見れば、いかにも地主だということが分かるだろうに。
日本で言えば楽天が大地主であろう。ここに出店して実質上の利益を出しているところは全体の5%と言われている。残り95%は売れる売れないにかかわらず毎月5万円の年貢を納めているわけだ。しかも月100万円以上売り上げる優秀な小作人からは通常の年貢+売上げの2〜3%の所得税も徴収し、その後は普通の小作人からも同様の徴収を敢行している。
そして小作人は、これが不満だからと言って楽天から撤退したところで、楽天以上のアクセス数が期待できるモールは他にないし、自力でネットショップを運営するほどのノウハウは無い。従って楽天の中で商売を続けるしかないわけだ。これもまさに地主の論理であろう。
2006年4月にfladdict.net blogというブログに「Web2.0というのは結局は『地主制度2.0』じゃないの?」という名言があった。その中ではGoogleやアマゾン、アップルを地主と称し、そこでマッシュアップを利用する小作人は地域紛争で踊らされている武器の密輸業者である、というような意味のことも書かれていたらしい。
逆にここで地主と称されている企業は、もっと早い時期からこういったビジネスモデルを計画し、多くの小作人が薄利にもかかわらず「乗り遅れてはいけない」という焦りも伴い、あくせく働くことで、地主が儲かる仕組みを作っていたわけだ。
(次世代ウェブ グーグルの次のモデル:佐々木俊尚著、光文社新書より引用)
画像や文字の間隔を充分に取り、文字も大きくして、ゆとりを持ったレイアウトのほうが見る人に優しいのではないか?という意見もあろう。確かにその考え方も正しい。ウェブやDTPではその目的やターゲットユーザーによって「カッコ良さ」を犠牲にして「優しさ」を優先することもある。 しかし一般的に「カッコ良さ」を要求される場合には、やはりこの「緻密さ」は必須であろう。ケータイ電話を見れば分かる。もしもその大きさが幅、高さとも1.5倍あって、ボタンも大きく、文字も大きくしたほうが絶対に見易く利用者に優しいはずである。でもそのようなケータイを作ったところで絶対に売れない。その理由はただ一つ。「カッコワルい」からだ。
大きくなれば携帯に不便?なんてことはない。メガネケースも札箱もPDAも携帯されている。「カッコワルい」ものは人は感覚的に買わないのだ。 小さいほうがカッコよく見える。これはデザインの基本中の基本だ。そこを分かっていないのに蘊蓄をこくな。
プロのデザイナは常に緻密さを心がける。一度レイアウトしたものを、どうしたらもっと狭いスペースに収められるか?ということを常にレビューしてトライしているのだ。ウェブページでも一度並べた画像や文字も、どこまで凝縮してコンパクトに狭い面積の中に押し込むかということを考える。
もちろん押し込み過ぎて窮屈に感じない、文字が小さ過ぎて読めない、ということにならない程度にだ。逆に言えばそうなる寸前のギリギリのところを狙うことで、そのレイアウトに緊張感が生まれる。
素人がデザインしたページの多くは、画像や文字の間隔が必要以上に広く、それぞれの分品がただ置いただけの配置になっている。だから緊張感がなく間延びした感じになり、不用に縦に長〜いスクロールも発生するわけだ。
真似というのは楽である。とくに有名でみんなが知っているものの真似は注目度も高く説得力もあったりする。だからアマゾンの真似をするサイトや、そのシステムを提唱するコンサルも多い。
しかし売り場面積が10坪の個人商店が全国チェーンの大手スーパーの真似をするようなもので、所詮は現実にそぐわず失敗するケースがほとんどだ。売り場面積が10坪の個人商店に大手スーパー同等のレジを置けばそれだけで店はいっぱいだ。商品数が100種類の店が商品数10万点の店と同じ在庫管理システムを導入しても意味はない。ロングテールなどといって商品数を増やしたところで管理の手間が増えるだけ。
一時期赤字が続き、その経営を疑問視する声も多かった中、他の追従を許さないための物流や在庫管理システムに膨大な金額を投資してきた怪物がアマゾンでもある。絶対に真似できないために構築されたシステムの真似をすること自体がナンセンスなのだが。
サイコロを10回振ると、六が3回出たが三は1回も出なかった。また10回振ると、五と四は3回ずつ出て、あとは全て1回ずつ。というようにバラつくはずである。これが1000回、10万回と振り続ければ、目の出る回数は徐々に均等に近づいていく。
月の売上げが1億円のウェブショップが新たな決済方法を追加することで売上げが10%アップし、1億1千万になった。ではこれを月の売上げが10万円のサイトが同じことをする。サイコロの例に従えば、売上げが小さいほどバラ付きが大きい。つまり10万円が倍増する可能性も高くなれば1%しかアップしない可能性も高くなる。分母が小さいほどギャンブル性が高くなるということだ。
しかし全国1万店の「月の売上げが10万円のサイト」が同じことをすれば、平均的には月の売上げは1万円アップということになる。
パッチとは継ぎ当てのことであり、未完成なまま公開してしまったプログラムの不完全部分の「穴」を塞いで修繕するというもの。完成度の低いプログラムでは大量なパッチで修繕する必要が生じる。しかし名前が「パッチ」だと、いかにも欠点を補うという印象が強いので、その呼び名を「サービスパック」などとする場合もある。つまり「サービスパック」は巨大パッチのことであり、それだけ巨大な継ぎ当てが必要なほどに穴だらけのまま公開された完成度の超低いプログラムということだ。「サービス」などという言葉に惑わされてはいけない。付けるとカッコよくなるワッペンではなく、あくまでも穴を塞ぐための継ぎ当て用の布切れセットなのだ。
容赦無く他人のことを指摘する。歯に衣着せずにダイレクトに相手が言われたくないことを言う。こういった人間は嫌われ者だ。しかしこの嫌われ者は決して相手をいじめたり、からかってるわけではない。言われたほうはその時は落ち込み、凹み、傷つくかもしれないが、実は嫌われ者じゃない人たちであってもその言われた人の欠点や弱点は見えてはいるもののダイレクトに言わないわけだ。嫌われ者は自分が嫌われることを覚悟の上で、その人のタメに言っているのだ。
反対に人に好かれようとして生きてるやつにロクなやつはいない。
大抵の事はウェブを調べれば分かる。と、このような習性が身についている場合、ある企業のサイトを制作中にその企業の情報の一部が分からず困ることもあり、ついついウェブで検索して、その検索結果のページを見て「あ、今オレが作ってるページだ!」なんてこともあるものだ。
今までにも色々と書いてきたが、動画の効果の中で最も有効なことは、クライアントが動画に注力するために、他の部分について、あまり細かいコトを言わなくなるということであろう。特に自分が映っている動画の場合には顕著だ。
例えばそのページにアクセスするたびに毎回違う画像がシャッフルされてランダムに表示されるという仕掛け。これは使い方によっては非常に効果的なものでもある。作ってしまえば訪れた人は更新したのかな?と思うということもあれば、複数の画像を公平に目立つ場所に表示することもできる。
しかし問題もある。表示される画像の数が膨大になってくると、動作確認にも膨大な時間がかかるということである。
それどころか他の人間に比べて苦労することは多いし、同時多発する難問にぶつかり消耗することも多い。もちろん関わる人間全て平等というわけにもいかないので、影で悪口を言われ、ときには直接不平不満を聞かなければいけないこともある。
しかしそういった修羅場を経験することで、また企画力に磨きもかかるというもの。そうなれば尚更企画のできる人間とできない人間の差は大きくなってしまう。しかしその報酬には相変わらず大きな差が発生していないというのが実情でもある。
クリエータと呼ばれる仕事もする以上は、企画力が有るか無いかでは雲泥の差がある。企画力が無い人間がどんなに大勢集まっても何も成果物は産まれないからだ。企画力があるということは、技術的な情報やスキルだけではなく、予測する力や人を動かす信頼性、総合的に物事を見る力、リスクを覚悟する大胆さと、細かい部分にも眼を届かせる繊細さ、などなど、多くの能力が要求され、これを実践できる人間の割合は限られている。しかしその報酬にはあまり大きな差が発生していないというのが実情でもある。
えらくセンスが悪いんじゃないか?というデザイナもいるものだ。しかしカッコワルいデザインをするからといってそのデザイナがセンスが無いのかというと、実はそうでもないのだ。着てるものや住んでる部屋のインテリアがやたらとセンス良かったりもするからだ。
つまりファッションやインテリアを選ぶときと同様に自分の作品も客観的に見て、理想にこだわり、何度もレビューしながら修正していけばセンスが良いものに仕上がるはず。
その労力を惜しむ、自分の作品に甘える、仕事と割り切って本気を出さない、といったことが原因なのだ。
教科書は勉強をするための参考資料である。もちろん教科書をより深く理解することが受験に対しては有効ではあるが、世の中には教科書に載っていりことよりも載っていないことのほうが遥かに多いのだ。
といったことは誰しも理解しているつもりでいるのだろうが、実際にウェブサイトを作るときには、いわゆる教科書的書籍に書いてあることを鵜呑みにして、その通り作ってしまうというケースも少なくないようだ。特に「売れるネットショップ」というようなタイトルの書籍は、そこに書いてある通りに作ったとしても実際に売れる可能性は極めて低い。そこに書いてある内容を理解した上で、自分の考えや経験を照らし合わせ、独自のコンセプトを構築しなければいけないのだ。教科書通りに作ったのになぜ売れない?なんて思っているようではダメなのだ。
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