●自称芸術家   2019.6.30
芸術を定義するのは難しい。芸術は非常に奥が深く一言では言い表せないような複雑で玄妙なものなのだ。それを芸術に携わったことのない素人が語ると、実に表面的で浅はかで短絡的なものに聞こえる。しかし芸術に携わったことのある自称芸術家は、自分は感性が鋭く、他人とは異なった視点で物事を見ることができる、と勘違いしていることも多い。だから自称芸術家が語る、政治や経済のことは、実に表面的で浅はかで短絡的なものが多いのだ。


●リンク集(2)   2019.6.29
→昨日の続き。「ホームページの無い会社はホームレスだぞ!」と言われて2005年ごろまでに慌てて作ったホームページと、周りから「ホームページ無いんですか?」と言われて2010年過ぎに作ったものだ。前者は画面に動きが無く、こじんまりと全体が左寄せ、またはセンター振り分けになっている。後者はトップにまずは大きな写真のスライドショーが、まるで申し合わせたように動いている。続けて何社か見た場合には、はっきり言って「ウザい!」。むしろ、画面に動きが無くこじんまりと全体が左寄せされたホームページのほうが見ていて安心する。ただしこの時代のホームページはやたらとコンセプチュアルな押し付けがましいコンテンツが多く、更新が10年前に途絶えているし、スマホ対応もされていない。それでも別段支障がないから、そのままにしてあるのだろう。そうしてみると、ホームページというものは、「そんなもんは必要ない!」ものなのかもしれない。


●リンク集(1)   2019.6.28
今ではめっきり少なくなったが、リンク集のページを作ることがある。どんな業界でも、株式会社であれば、ほぼ間違いなくホームページというものを持っている時代となったようである。2000年ごろのIT革命と言われた時代には、「ホームページの無い会社はホームレスだぞ!」とか言われて各社とも必死でホームページを作る一方で、「そんなもんは必要ない!」と意固地になっている会社も少なくなかった。しかしそうは言ってもホームページ無しだと、取引先や顧客や株主や銀行や税理士や家族から「ホームページ無いんですか?」と言われて仕方なく作ったところもあるようだ。そして今、各社のホームページを見てみると、だいたい2つのパターンに別れている。→明日へ続く。


●時価   2019.6.27
商品には価格が固定のものと、変動するものがある。変動するものは「時価」と言う。時価の代表は野菜や魚などぼ生鮮食品だ。生鮮食品は途中に入る加工工程が無いために、そのモノ自体のその時の価値がそのまま値段に繁栄する。これが例えば缶詰のような加工食品では、缶に使う鉄板、缶に巻くステッカー、缶をプレスするときの金型焼却費、缶に詰める作業の人件費、缶の輸送費、プレス機を動かす電気代、などなど色々なコストがかかるので、缶詰の中味のコストが変動しても、他の部分で吸収することができる。しかし缶の輸送費に含まれるガソリン代は最も身近な時価でもあるのだが、これもどっかで吸収できているということだろう。そして最も変動が激しく「ボッてやがる感」が強いのは飛行機代であろう。生鮮食品のサバが時価でサバの缶詰が固定価格なのは理解できる。しかし新幹線が固定価格で飛行機が時価なのは消費者的には、本来理解しがたいことなのだが。


●どうでもいいこと   2019.6.26
世の中には「どうでもいいこと」と「どうでもよくないこと」の2つがある。家庭や会社や学校で起こる多くの事象は「どうでもよくないこと」であり、問題があればそれを解決するための行動を起こさなくてはいけない。一方の「どうでもいいこと」はテレビで放映されているほとんどのことだろう。そのクソ「どうでもいいこと」を真剣にテレビにかじりついて見ている時間があるのなら「どうでもよくないこと」にもっと注力して真剣にとりくむべきであろう。「どうでもいいこと」は、本当に「どうでもいいこと」であり、「どうでもよくないこと」は放っておいたらいけないことなのだ。


●イヌとカラス   2019.6.25
イヌとカラスの共通点は何でしょうか?それはどちらも植物の名前につけることで、食用にも観賞用にもならない「役に立たない」という意味になるということ。イヌダテ、イヌサフラン、イヌノフグリ、イヌハッカ、イヌゲイトウ、イヌホオズキ、イヌビエ、カラスウリ、カラスムギ、カラスノエンドウ、カラスビシャク、などなどで、そのほとんどが雑草であり、どれもイヌやカラスが好んで食べるとかではない。もちろん人間が人間の都合で命名したもので、「役に立たない」というのはあくまで人間にとってのことである。イヌもカラスも人間という触媒を利用して、地球上に繁栄している生き物であると言えよう。それをまあ植物の名前に形容詞的に使うことで「役に立たない」という意味にするとは、全くもって人間は勝手な生き物であろう。そして世の中には数多くの、イヌニンゲン、カラスニンゲンなどの雑人間も生息しているようでもある。


●乗り遅れ(2)   2019.6.24
→昨日の続き。ところが面倒だから使わなくていいや!と思っている間に、気がつけば周りの人間がみんな使うようになってきている。そして口々に「これは便利だ!」「あんたも早く使ったほうがいい!」とか言われるようになる。しかし今から使っても使い方を学習していないので周りのレベルには追いついていけない、ということは薄々感じる。そして同じように乗り遅れた仲間を探す。そしてその仲間と「あんなもんなくたっていいのにねぇ」とか言って互いに舐めあって心のバランスをとるようになる。乗り遅たことに気づいた直後になんとかすれば間に合ったものを、乗り遅れた列車がどんどん加速し、はるか彼方に見えなくなってしまってからでは、追いつくためには相当なパワーが必要になり、そんなパワーは普通は持ち合わせてはいない。そして諦める以外の道はなくなる。とまぁ、諦めたところで、身の回りで特段不自由に感じるものは少なくなってきているので、特に問題ではないようだ。


●乗り遅れ(1)   2019.6.23
人間は基本的に保守的である。保守的(conservative)の対義語は革新的(innovative)で、既存のものをより適切と思われるものに変更することを意味する。つまり既存のものが適切であれば変更する必要がない。今の時代、身の回りで特段不自由に感じるものは少なくなってきている。より便利なものに変更しようとするには、その「より便利なもの」の使い方を学習しなければいけない。学習を行うには労力が伴う。その労力を費やしてまで「より便利なもの」から得られる対価があるのかどうかは疑問に感じる。もしかしたら十分な対価があるのかもしれないし、ほとんど対価が得られないかもしれない。そしてそれは学習して使ってみないと分からない。だったら面倒だから使わなくていいや!ということになるのだろう。→明日へ続く。


●性格   2019.6.22
あなたの周囲に、次に該当するような性格の人がいたなら○をつける。というアンケート。①いつも自分のことばかり考えている。②他人の悪口を喋りまくっている。③ちょっと思い通りにならないとすぐに不機嫌になる。④他人を指図することは大好きだが、他人に指図されるのは大嫌いである。⑤他人の話は聞かずに自分のことばかりを喋る。⑥そのときの都合や気分で言うことがコロコロ変わる。⑦努力はしたくないがスポットライトは浴びたい。⑧承認欲求が旺盛である。⑨自分らしくありたいと言っているわりに他人と同じであることを好む。⑩時間とカネにルーズである。さあ、いくつ○がつきましたか?たぶんその○がついた項目があなた自身の性格なのです。


●ムチ打ち   2019.6.21
中東でテロリストに3人の日本人観光客の男が捕まった。テロリストは3人に言った。「10回のムチ打ちに耐えたら解放してやる。耐えられなかったら我々の仲間になれ。それがイヤだったら殺す」と。そしてテロリストは「ムチ打ちを選んだ者は、何か1つだけ自分で選んだものを、自分の背中に乗せてムチから体を守っても良いものとしよう」と言った。そして3人ともムチ打ちを選んだ。1人目は防弾チョッキを背中に乗せた。しかし1回目のムチで防弾チョッキは吹っ飛び、2回目のムチがモロに背中に当たった途端「あ、もう勘弁してくれ!オレはあんたたちの仲間になる!だからもうムチ打ちはやめてくれ!」と叫んだ。2人目の男は背中に何も乗せていなかった。「私はジャーナリストで何度かテロリストに捕まり拷問を受けた経験がある。だからムチ打ちの耐え方は知っているので、思い切りやってくれ!」と言った。そして2人目の男は10回のムチ打ちに見事に耐えることができた。そして3人目の男の順番になった。3人目の男は言った。「オレはこの2人目の男を背中に乗せる。」


●無駄   2019.6.20
「駄」には値うちのないもの、つまらないもの、粗悪なもの、という意味がある。「駄作」「駄菓子」「駄ジャレ」「駄犬」などだ。「駄」のもともとの意味は荷物を運ぶ馬のことで、ちゃんとした馬は人を乗せるが、ダメな馬は荷物を運ばせることに由来しているらしい。しかし「駄馬」という言葉もある。その駄馬に人を乗せて運んだときの料金が「駄賃」になったらしい。では「駄目」の由来は。囲碁で、両者の境にあってどちらの所有にもならない目、ということのようだ。「下駄」は、もともと足駄と呼ばれていたが、その中で歯の低いものが「下駄」になったらしい。「無駄」は、益がないこと、という意味だが、直訳すれば「値うちのないものでは無い」という意味になり、一見益がないように見えても、長い目で見れば「値うちのないものでは無い」のかもしれない。「無駄」は奥が深い。


●勘   2019.6.19
「オレの勘は大抵当たるんだよ!」と自慢気に言うおっさん。なんというおめでたさだ。そもそも人間には予知能力もなければテレパシーも使えない。「勘」というのは、その人間が経験したことを元に未来予測をするもので、例えば1歳児が芝生の上を走っているのを見て「転ぶよ!」と予想するようなものだ。そんな誰でも予測できるようなことを「勘」と言い換えることで、特別に備わった能力のように聞こえるだけである。ものごとの本質を理論的に考えられない人間が、決まって使いたがる言葉でもある。


●その辺   2019.6.18
クルマ「その辺に停めとけばいい」・ゴミ「その辺に捨てちゃえ」・酒「その辺で買ってこい」・道「その辺で聞いてこい」・ケンカ「その辺で止めておけ」・説教「その辺があんたの未熟なところだ」・愚痴「せめてその辺を何とかしてほしい」・算数「その辺の長さが10cm」・背中「その辺のところが痒い」・「その辺」は時間、空間を含めた、極めて限定的なものから極めて抽象的なものまで、近称、中称、遠称、不定称、にも使えるタイヘン便利で且つ無責任に使える指示代名詞だ。


●社会   2019.6.17
「社会」は「人間が集まって生活を営む集団」のこと。英語ではSocietyと訳される。社会人もSociety、学会も英語でSociety、社会学はSociology、また動物社会学、英訳ではanimal sociologyというのもあり、社会は人間に限ったものではないということのようだ。動物社会学では、ニホンザル社会の順位制やリーダー制、鳥類のなわばり制、アリやミツバチなどにみられる分業体制などについて、などが研究されているそうだ。ということは人間の社会というものは動物社会とあまり変わりはないということのようでもある。ちなみにSocial Networking Service(SNS)は適当な日本語は無いようであり、動物社会がSNSを利用するには時期尚早であろう。しかし油断してはいけない。ペット同士のコミュニケーションができるSNSを考えている人はいるかもしれない。需要はありそうだし。


●ネットには一切関わらずに生きていこう!   2019.6.16
ネットなどというものには一切関わらずに生きていこう!と決めている人たちの数はさすがに少なくなってきた。しかし高齢者の中には未だに「ネットには一切関わらずに生きていこう!」「スマホなんてできなくたって生きていける!」と心に決めている人も少なくはない。「今からマスターしたってどうせ生い先長くないし」とか言っている。しかしどうだろうか、仮に70才だとしたら、あと30年生きる可能性だってある。その間にファックスとかガラケーとかは姿を消すだろう。ネットやスマホ無しで生きていくのは段々と辛くなっていくはずだ。ただでさえ年寄りは家族の中で孤立し、みんなの話について行けてないのが、LINEができなければより孤立していき、ネット情報無しではもっと話について行けなくなる。断言する。残りの人生30年。ネットができるのとできないのでは生きていく楽しさに雲泥の差があるということを。


●心の穴   2019.6.15
「心にポッカリ空いた穴」などという表現がある。これに対して「心の穴を埋める」なんて表現がある。で、実際には、現実逃避をしたいとき、辛いことがあって何も考えたくないとき、などに心に穴が開いたことにしてしまうということのようだ。心に穴が開いてしまった私は可哀想でしょ!ということをPRしているようだ。そして上手くいかないこと、思い通りにならないことがあったときに、その代償行為として、やらなくてもいいようなことをやるのが「心の穴を埋める」ということのようだ。ものごとを真摯に受け止め、問題解決の努力を真正面から行い、精神的に自己完結できるような人には「心の穴」は無縁のようでもある。


●時間   2019.6.14
時間などというものがなぜあるのか?ビッグバーン以前には時間がなかったのか?時間の経つ速度は常に一定なのか?時間はなぜ守らないといけないのか?時間を割ったものが時間割なのか?時間になるとと時刻が来るのか?自由時間に働くと労働時間になるのか?時間は60進法なのになぜ秒の少数から10進法に変わるのか?時間は空間にのみ存在するのか?時間というものが無ければ歳はとらないのか?時間が止まるということは実際にはあるのか?いずれにしても時間というものは摩訶不思議なものであり、いくら理論的に説明されても感覚的には理解し難いものである。そもそも時計の長い針が2を指しているのが何で10分なのだ?


●理解力   2019.6.13
ネットショップでは、例えば購入の方法を勘違いしている1件の事例があった場合に、そのネットショップ管理者は速攻で対応する。99%の人は勘違いすることのない内容であってもだ。これが学校であれば状況が全く異なる。99%の生徒が正しく理解できた内容を間違えた生徒は単に×を貰うだけだ。先生が設問を間違いないように修正することはしない。99%が理解できたことを理解できない1%が悪いわけで、理解力が足りないということになる。×を貰った生徒は「何で俺だけが?」と思って間違いないように勉強をして理解力をつけるようになるわけだ。ところが世の中では多くのシチュエーションで理解力の低い人間でも理解できるようになってきているようだ。学校では理解力を養い、社会では理解力を不要としてきている。この矛盾、どうしてくれようか?


●与えられることが当たり前   2019.6.12
与えられることに慣れてしまい与えられることが当たり前だと思っている世代が今の若者なのだろう。与える方は苦労して、ある程度のリスクを負って与えていたのにもかかわらず、その与える側の気持ちは1ミリも理解しない。まあそれが今どきの若者なのだからしょうがない。とか言って嘆いている今どきの熟年たち。あんたらだって生まれた時には既に電気も、水道も与えられていたということを忘れてはいけない。そして先人たちは「こいつら電気も水道もあるのが当たり前だと思ってやがる!」と嘆いていたであろうことも。


●確定申告の電子化(3)   2019.6.11
→昨日の続き。①は今ではオリジナルの出納帳をExcelで作って運用している。年に一度の確定申告時よりも、日々の入出金の管理をいかに正確に行うかということのほうが大切であるということが分かったからである(遅すぎるが…)。②についても、結果的には自分用のオリジナルの出納帳をExcelで作って、毎年問題点を修正しながら地道に活用していくことが良いということが分かってきた。ただし最後の決算書と申告書は手書きのままとした。理由は手書きの決算書と申告書を商工会に持っていき、税理士の人と世間話しをすることが大切であるということ。税理士と契約しているわけではないので、この機会以外に税理士の話は聞けないからだ。③は、普通は税理士と契約していて、税理士がやってくれる仕事だということが、最初は分からなかった。何とか計算を合わせた決算書の貸借対照表を税理士に見せると「完璧ですね。簿記とかやっていたんですか?」と聞かれ、「あ、みなさん税理士に丸投げで、自分ではやってないんだな」ということが分かった次第であった。


●確定申告の電子化(2)   2019.6.10
→昨日の続き。やってみて分かったこと。それは、①確定申告は年に一度しかやらないので、翌年には昨年やった多くの内容を忘れているということだ。だからどの部分を電子化すればいいのかを見つけるまでには10年以上の時間がかかってしまったということ。それから②フリーランスのデザイナーという個人事業主には、これといったテンプレートが見つからないということ。デザイナーには仕入れもなければ売掛もない。世の中にある一般的なテンプレートは使えない。というか使ったとしても無駄が多すぎるということが分かった。そして仕入れがなく金の出入りが少ない割りに③貸借対照表の計算がなかなか合わないということだ。→明日へ続く。


●確定申告の電子化(1)   2019.6.09
会社を辞めて個人事業主になったころ、丁度世の中では電子化が少しずつ進んでいた。確定申告も例外ではなかった。しかし個人事業主になって初めての確定申告をしなければならず、電子化云々以前に確定申告というもの自体の手順がどういうものなのかあまり理解できていなかった。従って多くの個人事業主同様、まずは手書きのアナログで出納帳も申告書を作成してみることにした。そもそも確定申告は、源泉徴収票や郵送されてくる諸々の書類を提出する必要があり、100%電子化というわけにはいかないので、アナログのままのほうが効率的である部分もあるはずだ。つまり手書きのアナログを何回かやってみてから、どの部分を電子化すればいいのかを検証する必要がある。ということで最初はルーズリーフの出納帳をつけることから始めた。→明日へ続く。


●ホームページデザイナー(3)   2019.6.08
→昨日の続き。そしてもっとも大きな問題は③のビジネスパーソン、つまり「営業」の経験が多くのホームページデザイナーに無かったということ。資本主義の世の中は弱肉強食であり、色々な価値観の人間が共存していて、その中で個人で商売をしていく難しさや恐ろしさを笑ってしまうくらいに知らなかったのである。クライアントからちょっとした修正や変更を依頼されただけで「頭に来てしまう」「落ち込んでしまう」「傷ついてしまう」ということになるのだ。まるで小学生が自分の描いた絵を「下手くそ!」と言われた時のような反応である。そしてその代償行為がクライアントにたいする「悪口」となる。基本的に自分のスキルや経験不足から干されたのにもかかわらず「あそこの社長は我がままだから」「本当に身勝手なクライアントだから」とか言っている自称ホームページデザイナーというのもたくさんいたのであった。


●ホームページデザイナー(2)   2019.6.07
→昨日の続き。次に②のプログラミングが問題になってくる。個人でホームページデザイナーを始めた人の多くが文系であった。文系の人でも基本的なHTMLは理解することができた。しかしHTMLが4.0になり、FLASHが使われ始め、CSSやJavaScriptが使われるようになり、しかもレスポンシブ、CMSともなってくると、脳内のキャッシュにデータを一時保存しながら作業を進めるという所謂「理系脳」でないとなかなか追いついていけない。特に今では必須のレスポンシブに移行していった2010〜2015年ごろにかけて、多くの個人のホームページデザイナー(このころはウェブデザイナーと呼ばれていた)がホームページのデザインを受注するということを諦めざるを得ない状況になっていった。→明日へ続く。


●ホームページデザイナー(1)   2019.6.06
2000年ごろから個人でホームページデザイナーという仕事を始める人が増え始めた。ちょうどSOHOという言葉が流行っていたころだ。そして多くのホームページデザイナーは独学でHTMLをかじっただけでの定年退職者、専業主婦などであった。そして彼らのほとんどは、①デザイナー、②プログラマー、③ビジネスパーソン、としてのスキルも経験もなかった。しかしホームページを作れる人が希少であったために、それなりに仕事はあった。ところがホームページデザイナーを始めて1〜2年経つと、色々な問題が見えてきた。まず①のデザイナーとしてのきちんとした教育を受けていない人は、デザインに関しては素人であるということ。プロのデザイナーというのはクライアントの要望した通り、イメージした通りのデザインをしなければいけない。しかし素人は、自分のデザインをクライアントに強要するという方向になりがちである。プロは多くの引き出しを持っているが、素人の引き出しは大抵は1つしかない。クライアントも強要されたデザインに不満はあるものの「ホームページってこういうものなのか…」と思いつつ仕方なく受け入れていたのであった。→明日へ続く。


●AI   2019.6.05
AIはartificial intelligenceのことだが、この英訳を正確に知っている人は意外に少ない。auto informationとの答えには「なるほどねー」とも思える、というかこのほうが分かりやすいともいえる。もはや人工知能は自らが勝手にデータを集めて解析しているので「人工」なのは最初の部分のみで、あとは自動的に成長しているようでもある。しかし彼らが集められる基本データは、カメラを通した映像データとマイクを通した音声データを中心に解析を行っているはずであり、人間が感じることのできる「臭覚」「味覚」「触覚」はデータの中にインプットされていないのが普通であろう。「臭覚」「味覚」については、これらを感知してデータ化する研究はすでに行われているはずであり、「触覚」についても温度計や風速計などの精度を上げることでデータのインプットは可能であろう。しかし人間には「第六感」というものがあり、これはAIには簡単に真似できないはずだ!などと言う人もいるが、その「第六感」に頼る場面が比較的多い「麻雀」では、もはや人間はAIには手も足も出ない領域に達している。なんせ彼らは「絶対に疲れない」のである。


●情報   2019.6.04
情報はinformationと英訳されることが多い。しかしinformationはインフォメーションとカタカナ表記されることもある。そしてインフォメーションの意味は「案内」という感じになる。そもそも「情報」の意味は「ある物事の事情についての知らせ」ということのようで、要するに「お知らせ」である。テレビで「お知らせ」というとコマーシャルのことであり、視聴者が欲していないにもかかわらず一方的に知らせてくる情報である。英語のdataは表現の形式を表しているのに対しinformationは表現の内容を表すことが多い。とか色々と考えていると「情報」の意味が段々と分からなくなってくる。ただ一つ言えるのはメルアドはinfo@で始まるよりはjoho@にしておいたほうが安全だということだ。


●くっつき過ぎのQRコード   2019.6.03
日本のほとんどの市町村は広報誌なるものを発刊している。しかしこの広報誌の読者の多くは高齢者である。それではいかん!ということで、若者が興味を持ちそうな記事を載せたり、若者をターゲットとした企画を組んだりしているのだが、基本的な構造が高齢者向けなので、若者が読むことは無いようだ。まず記事の多くが「申し込みはハガキ」「予約は電話」が中心である。今どきの若者はハガキなんか書いたことないし。予約はネットが当たり前である。さらにネットやスマホに対する扱いがぞんざいでいい加減である。「市のホームページから印刷できます」「市のホームページから電子申請で申し込みできます」「市のホームページからも応募できます」って書いてあるのが何をどうすればいいのか若者でも高齢者でも分からない。そもそもURLも検索キーワードも書かれていないのでどうにもならない。それならば!という意味かどうかは分からないが、QRコードをたっくさん載せていたりもするのであるが、QRコード同士が接近し過ぎていて、読み込んだ時に、実際にどのQRコードに反応したのか分からない。作った人が自らスマホをかざして確認をしていないようでもある。


●自分の意見-2   2019.6.02
→昨日の続き。つまり最近の若者は、世界には70億人の人がいて、日本には1億人の人がいて、自分はそのなかのたった一人に過ぎず、膨大な数の人と、思いや感性を共有しているというようなことが、なんとなく俯瞰的にイメージできているのだろう。それに比べると、ネットが無い時代に人間性を培ってきた大人が、「私はこう思う!」とか「私の意見はこうだ!」とか唾を飛ばしながら力説している姿は、なんだか滑稽に見えてしまう。


●自分の意見-1   2019.6.01
最近の若者は自分の意見を言わない。そもそも自分の意見や考えを持っていない。と、嘆く大人も多い。自信がないわけではない。勉強をしてないわけではない。甘やかされているわけでもない。なぜだろか?と考えてみる。そこで思い当たるのは、これはおそらくインターネットのせいなのではないか?ということだ。今の時代は、人が何かを思った時、何かを感じた時、インターネットで調べてみると、同じことを思って、同じことを感じた人の意見が大量に出てくる。つまりそこで思ったこと、感じたこと、は決して自分一人のものではなく、多くの人と共有した思いや感性であることを知っているからなのだろう。明日へ続く→。



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