2021年3月



●めんどくさがり屋  2021.3.31
まったくもって言葉が足りないという人がいる。何を指示するにも一言で済まそうとする。一言で済まそうとするから後から質問が相次ぎ、その回答を余儀なくされる。そもそも一言で済まそうとするのは基本的にめんどくさがり屋で、その場その場を場当たり的にやりそごそうとするから、そのめんどくさがったツケが後になって跳ね返ってくるのだ。そして余儀なくされた回答に答えるのもめんどくさいので放ったらかしにする。そうなるとものごとが前に進まず停滞してしまう。ことろがめんどくさがり屋は何度言ってもこの一言で済まそうとするクセが治らない。そして本人はこう思うらしい「一言で察しろよ。。」と。昭和の大企業の社長であれば「一言で察しろよ。。」が通用したかもしれない。しかし今は昭和でもなければ、あんたは大企業の社長でもないのだよ。


●誘蛾灯  2021.3.30
第4波が始まっている。何という愚かなことだろうか。密は密になる前に目で見て密になることであろうことは分かるだろうに。なぜその密になるであろう場所に自ら入っていき密になりたがるのだろうか。あたかも誘蛾灯に向かって飛んで火にいる夏の虫のようだ。夏の虫はただただ走光性という本能に従っての行動であるのだが、人間は密になってはいけないということが分かっているのに密になるであろう場所に自ら入っていき密になりたがる。マスクをしていてもワクチンを接種していても若くても密になってしまえば感染はする。このままでは第4派が終わっても第5派、第6派と続くことであろう。そして派の波は徐々に平坦に均されていき、いずれ1日1000人程度で安定していくのではないだろうか。そして「密になってはいけないということが分かっているのに密になるであろう場所に自ら入っていき密になりたがる」以上は、その数は減ることはない。まあ、とはいえ誘蛾灯を設置したからといって、その地位域の蛾が全滅したという話は聞いたことがないので大丈夫なのであろう。


●諦め  2021.3.29
世の中色々と具合が悪くなると不平や不満や批判が湧き出てくる。人間の身体も色々と具合が悪くなると鼻水や咳や痰が出るようになる。鼻水や咳は悪くなった要因を身体の外に出そうとする自然の作用であり、出るからといって無理に止めようとすると悪くなった要因が身体の中に残ったままとなり、具合が悪くなった箇所が治らなくなる。だから不平や不満も出終わるまで出させてしまえば良い。不平不満を出し続けているうちに不平不満を言ったところで何も改善されないことが分かってきて、不平不満を言っていることが時間の無駄であり、不平不満を言っているヒマがあったら他のことをやったほうが良いということに気づき、いずれは不平不満は出なくなる。このことを「諦め」と言うのだが、何かを諦めることが、何か新しいことをやるきっかけにもなる。そして新しいことはやるほうも経験や実績が無いだけに不平不満を言いたくなるような状況が多発する。でもだからといって諦めてはいけない。


●養殖-2  2021.3.28
→昨日の続き。小さな池で金魚を飼う。2〜3匹のうちの1匹に潜んでいるウイルスが突然変異を起こし非常に強い毒性を持つようになったとしよう。もちろんそんなことが起こる確率は数百億分の1とかであろう。しかし金魚の数が1000匹になれば、その確率は数百倍になる。1000匹の金魚を飼う池が1億個あったとすれば、年に1回程度はどこかの池で宿っているウイルスが突然変異を起こすということになる。1000匹の密の状態なので、その1000匹には一気に感染するであろう(2〜3匹であればソーシャルディスタンスが保てるので感染する確率は低くなる)。1億個の池がそれぞれ独立した池であれば、年に1回程度はどこかの池の金魚が全滅するだけで済む。しかし1億個の池がそれぞれ水路でつながっていて、金魚も水も行き来できるようになっていたとしよう。さてどうなるのかは容易に想像がつくことだ。健康な人間でも、少なくとも39種類のウイルスが潜んでいるのだ。


●養殖-1  2021.3.27
小さな池で金魚を飼う。2〜3匹であれば放っておいても池に生えた苔やボウフラを食いながら生きている。1つの山に1家族の人間が暮らす。放っておいても山で採れた植物や獲れた獣を食いながら生きている。小さな池で1000匹の金魚を飼う。常にポンプで水を浄化しながら酸素を送り込まなければならない。そして人間が定期的に餌を与えなければいけない。そうしないと死んでしまう。1つの山に1000人の人間が暮らす。常に電気や下水道を使えるようにしてあげないといけない。そして定期的に人工的な餌を食べられるよいな環境を作ってあげないといけない。そうしないと死んでしまう。人類の多くは養殖されている状態にある。養殖されながら生きるというのは、けっこう危ういのであった。それでも世界の人口は毎年8000万人ずつ増えている。→明日へ続く。


●慣れろ  2021.3.26
緊急事態宣言が解除される。途端に感染者が増える。ということは分かっていたはずなのだが解除したのは何故だろう?と考えてみよう。要するにこれからはずうっと緊急事態宣言下と同じ生活を続けなければいけないから、緊急事態宣言下が日常となり、あえて宣言する必要が無くなったからだ。お外に出られないからストレスが溜まる、とか、今までずっと我慢してきたがもう限界だ、とか言っているおバカさんたちに「今の生活が続くことを覚悟しなさい」ということの通達と思ったほうが良い。お外に出られなくてもストレスが溜まらない方法は自分で考えろ。我慢を我慢と思うから限界がすぐに来るのであって、我慢を日常と考えれば限界もなくなる。てなもんだろう。もうコロナ前の生活には戻れないのだよ。そろそろ諦めなさい、ということであろう。大自然の中で暮らしていた人間が都会で暮らすようになれば色々とストレスも溜まり我慢しなければいけないことも多いはずだ。しかし都会で暮らす以上は都会の生活に慣れろ、ということになる。それと同じだ。


●若者はテレビを見ない  2021.3.25
今の若者はテレビを見ない。だから毎日にようにテレビでコロナ関連のニュースをやっていたとしても、そんなこととは関係なく自分たちの世界で生きている。2020年内閣府の消費動向調査では単身29歳以下のテレビ普及率は約80%だ。つまり5人に1人はテレビを所有していないということになる。さらにテレビを所有していても実際に見ているかどうかはまた別の話である。テレビのワイドショーを見ていると、あたかも世の中の全体の状況を踏まえていろいろなことを言っているかのように感じられるが、その圏外、枠外の人がどんどんと増えている。増して世論調査などというものは、旧世代の世論であって、新世代も含めた全ての世論ではないということを理解しておかないといけない。紅白も笑点もサザエさんも全く見たことのない人もいるということも知っておいたほうがいいだろう。


●著作物  2021.3.24
著作権は作品が完成したと同時に著作者に自動的に発生する権利である。ということは知っている人も多いことだろう。しかしこの権利が発生するのは「作者の考えや気持ちが反映されたものに限る」ということはあまり知られていないようである。例えば機械的、事務的に制作した名簿や出納帳などの文章、チューニングのために鳴らした音、写真の大半、などには発生しないのである。もちろん個別のケースで実際に裁判で争ってみないと明確な答えは出せないのも事実であろう。もっとも著作物の定義を語る以前に、作ったのもは何でも「アート」と呼ぶ風潮もあるのは困ったものである。著作物は「作者の考えや気持ちが反映されたもの」で、アートはこれにプラス「バランス・リズム・緊張感・物語」がなければいけないものであり、修正箇所を見出すことのできない圧倒的な完成度が求められるもののはずである。世の中には著作物にでさえ該当しないであろう偽アートが氾濫している。


●反感贔屓  2021.3.23
NHKのニュースで政府の政策に対して立憲民主党の意見が長々と放送されていた。政府、立民の言っている内容は別にして、その放送内容を見る限り、自民(政府)と野党(立民)の関係が、あたかも米国の共和党と民主党の関係のように錯覚させられる。もちろん米国は共和党と民主党の2大政党であり、政権を取れなかった場合でも常に双方がシャドーキャビネットを用意している。対して日本の立憲民主党は、支持率で圧倒的な差をつけられシャドーキャビネットには遠く及ばない人材であろう。野党代1党といったところで極めて弱小で脆弱な政党でしかないのだ。であるにもかかわらず、あたかも米国の2大政党のうちの1党のように報道するのは疑問である。支持率、または国会での議席数の割合に合わせた扱いにすべきであろう。立憲民主党の意見が国民の総意であるはずもないのだが。視聴率を気にしなくても良いはずのNHKのはずなのだが、マスコミは総じて反感贔屓な体質がDNAに組み込まれているのだろうか?


●時間  2021.3.22
地球の自転と公転が、銀河の移動が、宇宙の膨張が、全て止まったとしたら時間というものが存在しなくなる。時間というものが無くなったとしたら「時間が無い!」とか言うことも、考えることも、できなくなる。なんせ時間が無いのだ。我々の時間というものは宇宙の活動に委ねられている。宇宙という乗り物に乗って移動しているから共有する時間というものがあるわけだ。しかしそう考えると、飛行機に乗って移動している人と、家でじっとしている人では、本当に共通の時間を過ごしているのだろうか?本当は費やしている時間は違っているはずではないのか?時計などというややこしいモノを作ってしまったからそこんところが分からなくなってしまったのだ。そもそも地球の自転速度も公転速度も一定ではなくそれなりにムラがあり時計のように正確ではないのだ。そしていずれはその「ムラ」に同期した時計というものが開発されるかもしれない。その時計は2億年後に1日の長さが23時間(現存する時計時間)になったとしても、ちゃんと24時間に割り振ってくれるはずだ。


●スパム  2021.3.21
Amazonからメールが来る。購入した商品の評価をお願いします、とか様々なキャンペーンの案内だったりする。しかしそのようなメールは全てスルーしてゴミ箱に直行!という人も多いのではないか。べつにレスするのが億劫なわけではない。そのメールがスパムでないかどうか見極めるのが面倒臭いのだ。それだけ巧妙でカムフラージュに長けたスパムが増えている。もちろんよーく確かめればスパムであることは分かるのだが、その「よーく」にかける時間がどんどん増えてきている。従ってそんなことにかける時間は不毛である。すこし前であれば「こんなスパムが来た!」という記事をSNSに投稿することで多少は「いいね!」がついたのだが、そんな行為も意味がなくなってきている。もっとも考えてみれば「購入した商品の評価をお願いします」というメールも利用者にとっては特にメリットはない(あったとしても極めて希薄)であり、そいう意味では一種のスパムであろう。従ってゴミ箱に直行させるという行為に罪悪感は無いのであった。


● スマホサイト  2021.3.20
非常に雑駁に言えば、一般的なホームページがアクセスされるデバイスの割合は、スマホ6:デスクトップ3:タブレット1、である。ホームページはスマホでしか見ないという人も多い。にもかかわらずだ、ホームページはパソコンでしか確認しない人もこれまた多い。確かに会社や役所で自分の机に置いてあるパソコンで確認するのはラクチンだ。しかしだ、3割しか見られないパソコン用のページをどーでもいいようなくっだらねぇことをぐずぐずぐずぐずと言ってくる。そんなに言うなら、スマホのほうはどうなのよ?もっと大きな問題になるんじゃないのかよ?なのだが、彼らはスマホ画面はほとんど確認しない。そんな理不尽なことをやっているにもかかわらず、その行為が理不尽であるという意識が無い。ホームページの確認はパソコンでする。スマホはよくわかんねぇし、文字が小さくて読めねぇから、とりあえず目の前にあるパソコンで確認するという義務を果たすのだそうだ。ばっかじゃねーの。


●オンライン開催  2021.3.19
色々なイベントがオンラインで行われるようになった。そしてコロナがおさまるにしても、オンラインで行われるようになったものがリアル開催に戻ることは無いだろう。リアルだけで開催するにしてもオンラインに味を占めた人たちからはオンラインを希望する声は強く上がるはずだ。となるとオンラインとリアルの同時開催が理想であるのだが、そうなると主催者側の負担が膨大になってしまう。で、どちらを切るかということになればリアルを切るしかない。イベントの規模が大きくなればなるほど準備の時間が必要になる。そしてまたいつ緊急事態宣言が発令されるか分からない状況の中で、確実に開催できるのもオンラインということになる。対面で人と会う、とか飛行機や新幹線のチケットを取るとか、ホテルを予約する、とかは遠い昔のことになっていく。


●原発  2021.3.18
原発の不祥事が底無しの様相に至っているし、もう原発は止めればいいのに、と思っている人も多いことだろう。そもそもがアメリカが大量の核兵器を作った。そこで大量のウラン235が必要になる。ウラン235を生成するには、それよりも大量のウラン238が自動的に余ってしまう。ウラン238は兵器に使うほどの威力はないが、そのまま放置していると放射線を出すので何とかせなばいかん!そこで「そうだ原子力発電所を作って燃やしてしまえ!」ということでできたのが原発だ。現在では風力や太陽光発電の技術が劇的に進歩して、原発がなくても電力は十分に供給できるようになっている。それでも原発が必要なわけは、大量に作った核兵器の余りであるウラン238を、これからも引く続き、燃やしていかないと無くならないということではないかな。


●国会  2021.3.17
デジタル庁の設置云々をアナログ全開の国会でやっちょる。国会こそオンラインでやるべきだろう。答弁者は一言喋るだけのためにいちいちマイクの前まで行って帰ってくるという牛歩戦術を連想させるような光景を見て、誰も「茶番」とは思わないのだろうか。高齢者一同が1箇所に集まって事務方や参考人は誰がどう見ても密だ。こんなみっともない状態をテレビに曝け出しておいて、テレワークだコロナ対策だと言ったところで説得力はない。オンラインにすればヤジもなくなり議員の移動時間もなくなりコロナの感染リスクも激減するはずだ。そりゃあ、そうはできないという理由は山ほどあるのだろうけど、その山ほどのできない理由を克服しながら、みんなオンラインやテレワークをやっているのだよ。英国やドイツではすでに議会のオンライン化が始まっているが、日本では議論が本格化するまでにも及んでいないとのこと。ほ〜〜らまた出遅れている!国の最高機関がこんな有様じゃ、いつまで経っても日本はITデジタルのウルトラスーパー後進国のままであろう。「やっぱり人は会ってなんぼのもんじゃ」と言いながらカラオケに集まってくるジジィババァとおんなじじゃん!


●肌着  2021.3.16
小学校で女児の「肌着禁止」がニュースになっている。このニュースを読んで「肌着って何?」と思った人もいることだろう。特に肌着とシャツの厳密な違いはおっさんは分からない。以前も書いたと記憶しているが、面白いので再掲載。本当にあった話である。金物屋で買い物をしようとしていると一人のおっさんの客が飛び込んできた「すいませ〜ん、ハ◯ギありませんか?」するとまたおっさんの店主が「すいません、うちハガキは置いてないんですよ」「あ、いやハガキじゃなくて、ハ◯ギ」「あ、ハタキですか。ハタキならありますよ!」「あ、いやタハキじゃなくて、ハダギはありませんか?」「うち、ハダギは置いてないんですよ」「あ、そうですか」と言って帰っていった。金物屋に肌着を買いに来るのもどうかと思うが、自分の都合のいいものに何度も聞き間違えるのもどうかと思う。本当にあった話である。


●納期  2021.3.15
コロナ禍で大きく変わったものが「納期」であろう。コロナ前は「何をそんなに急いでいたのだろう?」と思うようにもなった。納期や締め切りを設定するときには、必ずバッファーを持たせる。途中で何度もバッファーが入るために最初の人の納期が実際よりも極端に短くなるのだ。これが情報の伝達がオンライン中心になってお互いが自分のペースで仕事をするようになってくると、そんなに「急かせる」必要もなくなってくる。そして社会全体として人間自体が移動する時間が大幅に減少して、この時間の節約が大きな余裕ともなったのだろう。バス停まで走る、とか駅の階段を駆け上がる、とかは遠い昔のことにように思えてくる。


●放射能-2  2021.3.14
昨日の続き→。黒澤明監督の「夢」の中で、色のついた放射能というのが出てくるが、セシウムやプルトニウムの原子は色をつけたところで小さすぎて見えない。コロナウイウスが見えないのと同じだ。セシウムやプルトニウムから発する放射線ともなればそもそもが電磁波なので色はつけられない。音に色がつけられないのと同じだ。福島第一原発の汚染水が地上のタンクに大量に溜められている。ここの溜められているトリチウムは水素の放射性同位体であり、地球上のどこにでも存在し、常に弱いβ線を放出する半減期が約12年の放射性物質だ。我々の暮らしている地球上の至る所に放射性物質は存在する。時計の文字盤の蛍光塗料、ラジウム温泉のラジウム、石の建造物、レントゲン写真機、タバコ、旅客機の中、などなどだ。これらと原発や核兵器による放射能、もともと天然にある放射線を出しているウランなど、無数の放射性物質があり、宇宙戦艦ヤマトがイスカンダルから持ってきた放射能除去装置でこれらを一掃することはできない。


●放射能-1  2021.3.13
福島第一原発、建物上部で7京ベクレルの激しい汚染が発覚とのこと。ニュースでは放射能を放射能として一括りにしているが、放射線にはα線、β線、γ線、中性子線などがあり、α線は通常の防護服で防げるが中性子線は厚さ3mのコンクリートも貫通する。また放射線を出す放射性同位体は理論的に7000種以上が存在すると言われていて、それぞれの放射線の半減期(体内にある放射性物質の量が代謝により半分にまで減少するときの時間)は、主なもの(我々がよく耳にするもの)では、ヨウ素131:8日、コバルト60:5.3年、ストロンチウム90:29年、セシウム137:30年、ラジウム226:1,500年、プルトニウム239:24,000年、ウラン238:45億年、である。またウランのように比重が重く一箇所に留まっているものもあれば、ストロンチウムのように比重が軽く風に乗って遠くまで移動するものもある。そんな放射性物質(同位体元素を)が放射する能力のことを放射能と呼ぶわけであり、あまりに広範囲で抽象的な言葉が「放射能」なのである。十把一絡げにするにも程がある!ってもんだ。まぁもっとも「原子力の平和利用」と謳って福島をはじめとする原発を乱立させたころに、広範囲で抽象的で十把一絡げで分かりにくい「放射能」という言葉が目眩しには便利だったのであろう。→明日に続く。


●「生」  2021.3.12
魚は獲れたての「生」が美味しいのは誰もが知っている。音楽はコンサートホールでの「生」が感動的であるのは誰もが知っている。しかし魚も音楽も、日常生活の中で全て「生」というわけにはいかないことも誰もが知っている。そして会議や授業というものも対面での「生」が良いことも誰もが知っている。ところが日常生活の中で全て「生」というわけにはいかないということが分かっていない原始人もいる。なぜ魚や音楽が日常生活の中で全て「生」というわけにはいかないのかを考えれば、会議や授業が全て「生」というわけにはいかないということが分かってくるはずであろうよ。何でもかんでも「生」というわけにはいかんのだよ、原始人たちよ。


●騎手  2021.3.11
テレワークを行なっていたある会社がは、段々とテレワークを行う社員が減ってきたとのこと。テレワークを推奨しているはずなのに、テレワークしている(出勤していない)社員に対して「なんだ、あいつ来てないのか?」というふうに思われる風潮が強くなってきたとのことだ。自動車が普及し始めたときに「やっぱりオラは馬のほうがいい」と言って馬に乗って出かけるようなものだ。出勤なんてものは、どうしても出勤せざるを得ない特定の職種だけで良いはずなのだ。どうしても馬に乗らなければいけない職業、例えば「騎手」という職種意外は自動車に乗ろう。自動車が普及した以上、みんなが馬に乗っている時代には絶対に戻らんということを感覚的に理解しないといけない。


●未来予測  2021.3.10
日本の役人や政治家の未来予測のできなさ加減には閉口するばかりである。過去のことや現状の分析は素晴らしくできるのだが、こと未来のこととなると知恵遅れ同然にぽかーんと口を開いたまま何もしない。市町村は都道府県の、都道府県は国の、国は海外の、それぞれ事例や実績がなければ、本当に何もしない。今回のコロナ騒動にしても、国が1年後10年後の方向性とビジョンを示せば、国民の多くはそこに向かって行動するはずだ。中長期的な未来をイメージできないままに、毎回毎回毎回、2週間先のことまでしか考えないから、全てが場当たり的で後追い後追いになってしまうわけだ。確かに未来予測は簡単ではない。外れた時に責任を負うことにもなりかねない。しかしだからと言って過去のことや現状の分析はネットが発達した現在では誰でもできるようになっている。腹をくくって外れたときは外れた時だ!というふうに開き直って、未来の方向性とビジョンを示すべきであろう。とまあ、現状の民主主義的指揮命令系統の中では、そんなことは無理であろうことは分かっているのではあるが。


●黒岩知事  2021.3.09
威勢ばっかりで中味がない黒岩知事がテレビで、外食する時、食べ物を口にするときにだけマスクを外して、食べ終わったらマスクをして会話をするようにする、ということを動画を交えて説明していた。「じゃ、おまえさんはそうまでして外食するんかい?」と言われて当然であろう。明らかに「自分」ができるかどうかを考えないで、そんな煩わしく、鬱陶しく、めんど臭いことを県民にやらさようとしている。平民である県民と県知事である自分は別である、というのが前提であるかのようだ。普通の当たり前のことを、身振り手振りを大袈裟に交えて、喋りに必要以上に強弱をつけて、安っぽいパフォーマンス色たっぷりに、次の選挙でも是非私に1票をという下心丸出しに、熱く(見ている方は寒い)語っているのだった。今回のコロナでダメ県知事の何人かが炙り出されてきたようでもある。神奈川の他、千葉、愛知、兵庫、島根、あたりだろうか…


●オンライン会議  2021.3.08
オンライン会議では同時に複数の人間が話すと混乱する。だから必然的に発言は一人ひとりが行い、残りの参加者がその発言を聞くということになる。そうなると必然的に参加者の議題に対しての考え方のレベルっちゅうもんが明確になってくる。「おいおい今はそんなことは問題ではないのだぞ」「自分の体験談を説明する時間ではないのだよ」「いったい君は何がいいたいのか分からん」というような発言があった場合には、リアルの会議であれば途中で聞くのを止めて隣の人と雑談でのしていれば良かったのだが、オンライン会議ではそうもいかない。一人の発言は最後まで耳に入ってきてしまう。1都3県の知事によるオンライン会議でも、「あいつ、基本的に考えが子供なんだよなぁ」とか「あいつ威勢ばっかりで中味がないんだよなぁ」とか、小池さんと大野さんは思っているのかもしれない。


●顔出しは必要か  2021.3.07
オンライン会議での顔出しは必要か?医師のオンライン診療であれば顔色を診ることも診察のうちなので必要だろう。また多少なりとも顔出しをすることでお互いの安心感につながりコミュニケーションが円滑になることも事実であろう。しかし参加者の数が多くなると個々の顔の観察に気をとられ本題に集中できないとか、回線やCPUへの負担が大きくなるなどの問題もある。またノーパソではローアングルになり上から目線になるとか、ライティングやカメラの性能により違った人に見えてしまうなどの問題もある。とはいえ常にビデオをoffにしていたのでは、ようするに電話と同じだ。つまり電話が複数参加できるようになればオンラインミーティングアプリはいらないということだ。ついでに複数参加できる電話でも映像の配信ができるようにしてしまえば良いだろう。あ、それがLINEミーティングってやつだな。


●デジタルサイネージ(2)  2021.3.06
昨日の続き→。1990年ごろに実際にテレビのデザインをやっていたのだが、当時でもすでに製品の80%はブラウン管の画面であり、デザインするのは残り20%の部分であった。これが今では製品の95%は液晶画面でありデザインするのは残りの本の少しの枠の部分のみである。そしてその枠の部分のデザインの良し悪しによって売り上げが変わることも製品の評価が変わることもない。まったくもってやり甲斐のないデザインということにもなろう。このことはデジタルサイネージをデザインする上でもたぶん同じで、デザイナーはビジュアル的な部分を考える必要はほとんどなく、構造的な部分のみを理論的に考える技術屋さん的な仕事になってくるのだろう。ということはだ。ウェブデザイナーも構造的な部分のみを理論的に考えるだけでもよくなるのだろうか。いや、そもそもビジュアル的な部分が全く考えられていないホームページというものも数多く存在していたのだからデジタルサイネージ化の浸透は早いはずだ。


●デジタルサイネージ(1)  2021.3.05
タイムズスクエアのビルに縦に並んだ広告塔に代表されるのがデジタルサイネージと呼ばれるものだ。紙のポスターでは頻繁に貼り替える必要があるが、デジタルサイネージはその必要がなく長期的に見ればコストも安いのだろう。紙のポスター自体も決して安いものではないし貼り替える人件費もバカにはならないはずである。そうして考えてみるとホームページのデザインというのもデジタルサイネージ化されつつあるように思える。ホームページのデザイン自体は広告を貼るための枠であり額縁であり、そこに貼られる広告(ボタンやバナー)を際立たせるために自分は目立たせない、しゃしゃり出ない、というものになっていくのだろう。そしてデザインに要するパワーはボタンやバナーに振り分けるということになるだろう。ところがそれを振り分けられないモノもある。それはテレビのデザインである。→明日に続く。


●心が弱い  2021.3.04
家にじっとしていることができなくて、すぐに外に遊びに行ってしまう。孤独に絶えられなくて、すぐに人に会いに行ってしまう。そういう人たちに「何でそうやって衝動的に行動してしまうんですか?」と問うてみる。すると「私は心の弱い人間なんです…」との回答だったりもする。心の弱い人間の共通点は、愚かで衝動的で不毛な行動の全てを「心が弱い」せいにする。そして私のせいではなく私の心のせいだから仕方がないのです、ということで愚かで衝動的で不毛な行動を直そうとしない。そうするとその人は子供ができると心の弱い親になり、孫ができれば心の弱い祖父母となるのだ。心の弱いお爺ちゃん、お婆ちゃんじゃ、さすがに孫からも頼りにされないことだろう。


●コロナ前の生活  2021.3.03
コロナの国内での死者が1年間で8千人に達しようとしている。今では全ての国民が「自分がコロナで死ぬかも?」という不安を持っているはずだ。しかし2018年には国内でインフルエンザで3千人が死んでいる。こと時は多くの国民が他人事と思っていた。コロナウイルスには様々な種類があり、そのうちの7種類が人間に病気を引き起こすとのことで、その中にはSARSやMERSから変異したものがあるとのことだ。つまりインフルエンザを含めARSやMERS、エイズやエボラ出血熱、狂牛病や鳥インフルエンザを含め「高等生物パンデミック紀」が始まっているということだ。この「紀」は「ジュラ紀」「白亜紀」と同じくらい長く続くのかもしれない。コロナ前の生活を体験したければ、あと2000万年ぐらい生きなければいけないということだ。というのは大袈裟であるが、少なくとも世界の人口増加がピークに達するであろう2100年ごろまでは、コロナ前の生活に戻ることはないであろう。緊急事態宣言云々というのは、極めて瑣末な問題でしかない。


●重要  2021.3.02
「重要なお知らせ」で始まる本文のメールは全部がスパムメールだ。重要であるからメールを送信するのであって重要でないものはLINEやtwitterで良いのである。だからメールのタイトルや本文にはいちいち重要という言葉は入れない。それなのに重要という言葉が入っているメールは全部スパムである。ということで「重要」という言葉は本来の「価値・必要性などが大きいこと。大切。」という意味から「怪しい・疑わしいこと。」という意味に変わってくるのではないかな。ウェブページに書かれている「重要」の多くも、主宰者、管理者にとっては重要かもしれないが、閲覧者、消費者にとっては重要でないことの場合がほとんどである。


●ムカつくこと  2021.3.01
ムカつくことの多くは、そのムカついた人の、知力、制御力、予測能力、包容力、理解力、推察力などの「力」の欠如に起因することが多い。これらの「力」が備わってくると、予めムカつくことを回避したり、カつくことに出くわさないように注意するようになる。しかしこれらの「力」が備わるまでには長い時間と経験が必要となる。だからこれらの「力」が不足している多くの若者はムカつく機会が多くなり、ことあるごとにムカついていることとなる。つまり人間は歳を重ねるごとに自然とムカつくことが少なくなってくるようにできている。そしていい歳こいて毎日のようにムカついてる人を、世間では「愚か者」と呼ぶ。



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