2021年8月



●頑張る   2021.8.31
頑張るという言葉が日本人は大好きだ。しかし優れた結果を出す人が頑張ったかというとそうでもない。その結果に至るまでには頑張った、に相当する、またはそれ以上の労力を費やしたかもしれない。ところがそのことが辛いのを我慢して寝る時間も惜しんで必死に頑張った、とかではない。楽しみながら没頭して寝るのも忘れて集中して過ごした時間によってできた成果物なのだ。にもかかわらず、シゴキに耐えた、辛い修行を成し遂げた、苦しみや痛みに打ち勝った、というのが「頑張った」のだという印象が強いようでもある。そして頑張れずにすぐに諦めてしまう人に限って頑張るという言葉を使いたがる。


●読みが甘い   2021.8.30
少し前までは世界の感染状況を語るときに、欧米では、とか中東やアフリカでは、とか言っていたが、そうも言っていられなくなった。日本の近隣諸国に明らかに広がっている。マレーシア、フィリピン、ベトナム、スリランカ、オーストラリアがかなりヤバい状況だ。東京五輪で来日したころはオーストラリアは余裕だったのが、今では連日感染者数を更新し続けている。韓国、タイはピークは過ぎたようだが予断を許さない状況。台湾は再び抑え込みに成功しているが、イスラエルは第3派がピークを更新しそうな勢い。ミャンマー、ネパール、インドネシアは減少傾向にあるが、モンゴル、香港、ブルネイなどは増加している。総じて日本包囲網がじわじわと狭まってきているという印象だ。「もー、どうすんでぇ!」っといったところだろう。それでも「明かりは見え始めています」なんて言うから支持率下がるんじゃないのかな。まぁ、感染者数が毎日10万人を超えているアメリカの大統領も、ついこの間、マスクを外して「我々はワクチンに守られている」とか言っていたしな。人類揃いも揃って「読みが甘い!」ということだろう。そして人類は感染を抑えるためにワクチンを摂取するのではなく、自分が遊びに出かけるためにワクチンをうっているのだから感染が収まるわけもない。「読みが甘い!」というよりは「読みもしない」ということだ。


●待ちぼうけ   2021.8.29
童謡・唱歌 「待ちぼうけ」では偶然木の根っこで転んだ兎をGETし、その後は野良仕事をせずに木の根っこで転ぶ兎をずーっと待っているという話だ。仮に自分だったら木の根っこで転ぶことがどのくらいの頻度であるのか?ということを考えれば、木の根っこで転ぶ野生の兎の確率がいかに低いかということが容易に想像がつくはずだ。昔はすっとこどっこいな百姓がいたんだな、と思ったものだ。江夏豊投手の話で、ある打者に対して、試合の大勢が決まった後に、打ちごろのコースにわざと投げたところ、見事にホームランされたとのこと。以来、その打者は江夏と対戦するときには、毎回決まってそのコースの球を待っていたとのこと。しかし江夏は絶対にそのコースに投げなかったために、生涯に渡り、その打者に打たれることは無かったとのこと。昭和にはすっとこどっこいなプロ野球選手がいたんだな、と思ったものだ。


●電話   2021.8.28
電話のできない若者が増えているそうだ。このことは決して嘆くことではなく、普通に考えて「世の流れ」であろう。PDFの資料1枚で済むものを、電話で説明するから1時間も2時間もかかるのだ!と誰かが言っていたが、まさにその通りであろう。若者でなくても、コロナ以降はビジネスで電話をする機会が大幅に減ったように思える。どうしても電話をしなけらばならない場合は、メールやSNSで「電話をしたいのだが何時だったらいいですか?」と予め尋ねるということが、一般的なマナーにもなっているようだ。アポ無しで突然電話するというのは、極めて失礼な行為とも言えよう。メールやSNSで「電話をしたいのだが何時だったらいいですか?」というやりとりもしていると、結局は電話でなく、zoomにしよう!ということにもなる。アポ有りならば、相手の顔も見えない、資料提示もできない、通話料もかかる、電話である必要は全くない。のであるのだが昭和の人間はとにかく電話が大好きなようだ。自宅に始めて固定電話が引かれた懐かしく思い出深い日のことが忘れられないのであろう。


● 平常心   2021.8.27
平常心とは、普段と変わらない心、揺れ動くことのない心理状態、のことだそうだ。では普段は心理状態が揺れ動くことが無いのかというとそんなことはないだろう。人間である以上は多かれ少なかれ感情や心理は色々と揺れ動く。ではなぜ非常事態が起きたときに「平常心を失わずに行動しろ!」とか言うのだろうか?そんなことを言うから非常事態宣言が発令されても、いつもと変わらない普段通りの行動をするやつがたくさんいるのではないか。


●群れる   2021.8.26
群れたがる人はみんなと一緒に群れていることで安心する。そこでソーシャルディスタンスが保たれないなんてことは関係ない。一人でいると不安なのだ。一緒に群れていることで他人の話を真剣に聞くわけでもない。自分の話を衝動的に思いついたままに何の考えもなくするだけであり、その話は話したほうも聞いたほうも何も残らないし何の勉強にもならない。内容を全て完璧に忘れたところで生活には何の支障もない。そしてその群れるという行動が発展していくと宗教的な儀式や、反政府デモ、祭りとなる。群れたがる人は儀式や祭りに参加することで「一緒に群れていることの安心」に理由(儀式、デモ、祭り)をつけるのであった。結局は1人で何にもできない人が群れて蒸れて無れるのであった。


●修学旅行   2021.8.25
ある学校ではVRの修学旅行を実施した。といっても生徒がVRゴーグルをつけているわけではない。全員が視聴覚室に集まって、液晶プロジェクタからスクリーンに映し出される観光地や名所旧跡の動画を距離を空けて並べられた椅子に座って、じーーって見ているというもの。企画したバカ教師どもは、こんなんでどこが楽しいと思っているのだろうか?ある学校ではリアルな修学旅行を実施した。ただし感染防止のため、移動のバスの中では水分補給の飲み物以外は飲食禁止。マスク着用で会話も禁止だそうだ。まるで囚人護送車の車内である。企画したバカ教師どもは、こんなんで何が面白いと思っているのだろうか?いずれも色々と考えた末の落とし所がそうなったのであろうことは想像がつく。時代の変わり目には、本人たちは真面目にやっているのだが、はたからは滑稽に見えることが起きるものだ。しかしそれが滑稽なことであるということが分からないのは、やっぱりバカ教師である。


●高校生活返せ!   2021.8.24
高校生活返せ!ねえ私の青春どこなん??マジ泣きそうコロナまじやめて!とか悲痛なJKの叫びがtwitterを賑わしている。というような記事を読んだ90歳の婆さんが、あたしら戦争で青春なんてもんはカケラも無かったんじゃよ。それに比べりゃあんたら幸せもんだよ。と、まあそんなことを言ったところで今どきのJKは、うっせーな、そんな昔のこと知らねーよ!ってことになるだろう。いずれにしても平和で人類がみんな幸せで安心安全安定の時代はそんなに長くは続かない、と思っておいたほうが良いだろう。ということをしっかりと子供に教育しておくべきなのだろう。とはいえオッサンの3年間とJKの3年間とでは全く違うからなぁ。ということを大人や高齢者も理解しておいてあげないと可哀想だ。とはいえ今回のコロナ巣篭もり生活を「勉強」に充てておけば、きっと将来のためになることだろう。遊べなくなった!で文句ばかりを垂れていたのでは、結局将来は知能が低い人間になってしまうのだよ。


●知能が低いやつ   2021.8.23
感染者の行動歴(8月16日〜18日)が公開されている。出どころははっきりしないが、多くが会食、居酒屋、パーティー、カラオケ、BBQ、などに参加している。しかも発熱している状態だったりもする。このデータはほんの一部かもしれないが、ここまで知能が低いやつが多いということか。しかもこれは正直に口を割った一部であり、居酒屋やパーティーに行ったにもかかわらず「身に覚えがない…」とシラを切っているヤツも多いことだろう。知能が低いやつに限って白々しく嘘をつく。そしてこいつらは自分たちのせいで感染者数が減らないということが自分が感染してからやっと分かるという点でも知能の低さが分かるというもの。火傷しないと火の熱さが分からないのと同じだ。「火とは 化学的には物質の燃焼に伴って起きる現象であり燃焼物質が可燃性ガスを放出し始めて温度が約250℃程度に達した状態で発生する。」なんてことを、いくら説明しても知能が低いから分からないのだろう。触ってみて「あっちっち!」となるまではね。


●固定電話の解約   2021.8.22
家デン(固定電話)を解約しに行った。ここ数年家デンをかけたこともないし、かかってきたこともない。FAXなるものもここ15年ぐらい使ってもいないし、もちろんこれから使う予定もない。というかFAXの機械もぶっ壊れて10年ぐらい前に捨てちまったし、同時にFAX一体型の家デンの親機も捨てちまった。唯一家デンの子機だけが残っていたが、昔はたまにかかってきた詐欺電話もかかって来なくなった。そして子機とともに残っていたのが固定電話の契約だったのだが、これがなんと解約すると月々の電話料金が高くなるということだった。固定電話の基本使用料は月500円程度なのだが、この500円を解約すると、スマホと固定電話の両方に同時に契約することで月1000円安くなるサービスが使えなくなり、月々の電話料金が500円安くなると同時に1000円高くなり、結果月500円高くなってしまうということだった。家デンを解約させない、何らかの圧力がかかっているのいだろうか?それとも眼中に無い存在だから、どうでも良いという感じで、テキトーに扱われているのだろうか?


●マスクを外して笑顔で会える日まで   2021.8.21
「マスクを外して笑顔で会える日まで頑張ろう」って、そんな日は来ねーよ!ってことが分からないのかな?世界の感染状況を見れば一目瞭然なはずだ。ここ1年半で感染者数は減ったと思ったら増えの昇降状態を繰り返している。そして累積感染者は2億人を超え、死者は500万人に達しようとしている。いずれも凄い勢いで増え続けている。しかもこの数字は大本営発表であり実際はもっと多いはずだ。この数字のグラフを見れば収束にはほど遠いということは、まさに一目瞭然なはずだ。そして国や自治体が何かを要請するたびに、わーわーギャーギャーと腐ったまんじゅうに集ったハエのように騒いでいる。「じゃ、お前らだったらどうするの?」ってことだ。しかし国家元首も首長も「マスクを外して笑顔で会える日なんて来ねーよ」とは言えないところが辛いのかもしれない。とはいえ、おそらく国や自治体の中枢の人間は「マスクを外して笑顔で会える日なんて来ない」ことを前提に、色々と画策しているはずだろう。


●自己満足と客観的評価   2021.8.20
自己満足と客観的評価には雲泥の差がある。自分で作ったものを自己満足的な評価では90点だったものは客観的評価では20点だったりもする。とかく絵画やデザインにおいてはこの傾向が強い。苦労して時間をかけて一生懸命描いた絵画であれば自己満足的な評価では高い点数を与えたくなる気持ちも分かる。しかしそれはあくまでも主観的な視点のみであって客観的に俯瞰的に見たものではない。世の中に絵を描く人がどのくらい存在して、その人たちの平均的な実力はどの程度であって、その中であんたの描いた絵がどのへんに位置するのか?というふうに見れば、自ずと20点ぐらいだということは分かるはずだ。しかしこういった客観的視点で自分の立ち位置を冷静に見極めようとは多くの人はしない。自己満足的な評価で90点をつけて次は100点を目指して頑張ろう!とい風になる。おめでたいことだが、ほとんどがこういう風だから殺伐としないで済んでいるのだろう。


●落語   2021.8.19
昭和でなければ平成でもない令和の落語である。落語家が最近の若者はモノを知らない。我々の子供の頃なんざぁ…という内容の話を枕でする。それはそれで構わないのだが、その話を聞いていると「新しいことはワケが分からない」「我々は新しいことを知る必要がない」「年寄りは古いことだけ知っていれば良くて、それを若者に伝承することが年寄りの役割だ」というふうに話を持っていく。バッカじゃえの?だからネットもパソコンもスマホもキャッシュレスもできないバカ年寄りが増えて、社会に多大なる迷惑をかけているんじゃめーのかよ。しかもその話をしているのが50代の噺家だったりもする。さらにそれを聞いている老人たちは、その内容に何も違和感を感じないらしい。こうして老害がまた増殖していくのであった。


●まだまだたくさんいる   2021.8.18
タリバンがアフガンを制圧したことにより、アフガンからの脱出を試みる人たちが撤退する米軍の基地に殺到した。その中の何人かは離陸するC-17輸送機の機外にしがみつき、落下して死亡したとのこと。仮に落下しなかったとしても高度数千メートルを500kの速さで飛んでいる飛行機の外壁が、人間が生きてはいけない環境であるということは知らなかったのだろう。笑ってはいけない。それだけの教育を受けてない人間がほとんどだということだ。アフガニスタンやパキスタンの山間部の村などでは、教育はおろか、食っていくだけでもままならない人たちがたくさんいる。そして食っていくためにはテロ組織か軍隊に入るしかない。それは「死ぬこともある」ということを覚悟の上の話だ。食っていけなければ餓死するだけなのだから、そのほうがまだ希望があるというだけのことだ。そんな人が世界にはまだまだたくさんいる。ということを知らない日本人も、まだまだたくさんいる。


●張本勲   2021.8.17
女子ボクシング侮蔑問題で張本勲が謝罪した。アシスタントの唐橋ユミが謝罪文を読み上げ、本人は「今回は言い方を間違えて反省してます。以後、気を付けます」と、まるで小学校2年生みたいな、わずか5秒間の謝罪だった。リモートでカメラに向かって謝罪しているのだが、その映像は誰が見ても本人が反省してるとは思えない、むしろカメラに向かって「おまえら!オレが悪くないことは分かっているよな!」と威嚇しているような言いっぷりだ。お笑いコンビ「響」の「どうもすみませんでした」を思い出した。もっぱらマスコミでは「張本氏、謝罪に失敗」「張本氏、サンモニ降板か」「張本発言でサンモニのスポンサー離れに発展か」などなどと誌面を賑わせている。さらに「長く喋らせると必ず反感を招くことを言うから5秒にしたにだろう」「森喜朗でどうなるかは分かっていたので5秒にしたのだろう」などなど憶測も飛び交っている。長嶋茂雄が引退して、その代わりとして1975年に日本ハムから引き抜いて巨人に来た時には、多くの巨人ファンが「張本が巨人に来る!」と胸躍らせた。そのまま静かに引退していれば、永遠の俺たちのヒーローだったはずだったのにね。


●アクリル板   2021.8.16
新型コロナウイルスの感染を防止する手段の一つがアクリル板による遮蔽だ。確かにクリル板によって飛沫は遮断できることだろう。しかし飛沫よりも細かいエアロゾル感染が起きているということが分かってきたらしい。エアロゾル感染はアクリル板では防げない。密閉された空間の中では、空気が循環している以上はエアロゾルがアクリル板を軽く乗り越えていくはずだ。そうなるとソーシャルディスタンスとかも意味がなくなってくるはずだ。テレビのスタジオのような密閉されてその中を空気が循環している空間は最も危ないということになるのではないかな。テレビのスタジオ内でアクリル板を挟んで感染防止策について議論している番組が滑稽に見えてくるというものだ。テレビ番組はさっさと出演者オールリモートにすべきであろう。失言を謝罪するときだけではなく。


●オリンピック   2021.8.15
オリンピックが終わった。開催して良かったのかどうか?開催したことで感染者が増えたのかどうか?は、誰にも分からない。というか検証する術もない。そして開催してしまったものを今からどうこう言っても仕方がない。オリンピックで大きな感動と勇気をもらった人も多いはずだ。ところが政府の帰郷や外出の自粛要請に対してオリンピックを引き合いに出して「オリンピックをやったのだから帰郷もする!」的なネットへの書き込みが多いこと多いこと。あのなぁ。人類平等と言えどもオリンピックに出場できるアスリートは超ウルトラスーパー特別なんじゃよ。膨大なアスリートの中から厳選されて勝ち残ったそでぞれの国を背負っているその国の至宝ばかりのはずだ。入賞しただけでもその競技において世界78億の中のトップ8なわけだ。そしてそこに至るまでには、数えきれないほどの「負け」を経験し、数多くの挫折と絶望を克服した、人並み外れた不屈の根性と強い意志を持って挑んできた結果なのだ。「オリンピックをやったのだから帰郷もする!」とか言っている人たちよ。君らは世界でトップ100にでも数えられる「何か」を持っているのかね?一度か二度の敗北で、それ以上の挑戦を止めてしまった身分で、何を勝手なことを言っているのだ?と思わないのかよ。戦わないヤツらの分際で。


●老害   2021.8.14
最近の日本の3大老害と言えば、森喜朗、河村たかし、張本勲であろう。共通しているのは、謝罪しても明らかに自分は悪くないと思っていること。そして明らかに自分は悪くないと思っていることを示唆していること。張本勲に至っては、自分の口から謝罪することができないので誰かに書いてもらった文章を謝罪文として発表しているように思える。老害の老人は話が長い。話が長いので、例え謝罪をしていても喋っているうちに謝罪→言い訳→正当化、と中味が変わっていってしまい、聞いてるほうは「なんだ全然反省してないじゃん!」という印象しか残らない。老害の老人は、どんなに自分に非があっても、どんなに自分が悪いことをしても、明らかに自分に落ち度があっても、どんなに他人に迷惑をかけても、絶対にそのことを認めない。だから老害は、災害、損害、被害、公害、危害、弊害、障害、などの仲間に分類されている。


●足元の問題   2021.8.13
相変わらずマスコミも政府も日本国内の感染者数だけを見て「大変だー!大変だー!」と騒いでいる。ここ1年半の間ずーーーっとだ。まず最初に世界を見て、次に東南アジアを見れば、日本も感染者数は増えて当たり前だ!ということも分かるだろうに。この超時代遅れの島国根性というか、ガラパゴス思想というか、火事は対岸で起こるものと決めつけている愚かな思考というか、アンチ俯瞰的視野というか、オラが国しか見ないど田舎根性というか、何とかしてほしいものだ!なんていうことを言うと「まずは足元の問題を解決すべし!」とかもっともらしいことを言われてもしまう。「足元」が乗っかっている世界が共有している「地面」の問題だろうてよ。


●リーダーの資質   2021.8.12
何もしないで指示や命令をしているだけではリーダーになれない。だからといって全部自分でやってしまうようでもリーダーになれない。自分が他のメンバー以上のことをやって、その成果を可視化することによって、みんながついてくる。そこの「他のメンバー以上」の「以上」のところのさじ加減が難しいところであり、ここを誤ったが故に誰もついてこなくなるということもある。最も良くないのは、他のメンバーの成果物を簡単にリセットして、自分の成果物を上書きしてしまうという行為だ。その上書きされた成果物が「非の打ち所のない素晴らしいモノ」であれば良いのだが、大抵の場合、上書きしたほうは「非の打ち所のない素晴らしいモノ」と思っていても、他人から見れば「大して代わり映えのしないモノ」なのだ。そして上書きした後に「こうするんだ!」とドヤ顔をする。というような自称リーダーが、高度成長期のドタバタの時代には多く存在したのだが、今では老害と呼ばれている。


●選択肢を増やす   2021.8.11
クライアントからデザインを依頼された時、最初にラフ案を例えば3案だして選んでもらうと、たとえその3案全てがショボいデザインであったとしても、その後のやりとりが非常にスムーズに行く。逆に1案だけを提示すると、その1案が極めて完成度の高い素晴らしいデザインであったとしても、その後のやりとりで揉めることが多い。要するに途中で「選択する」という楽しみを与えてあげることが重要であり、選ばれたものが何であるかは関係ないのである。外食やショッピングでも、そこには「選ぶ楽しみ」があるから楽しいのであって、最初に選択肢がなければ楽しくも何ともないのであった。SNSに美しい顔の写真を載せることにより、その写真を見た多くの人が「この人、美しいな」と感じることによって、その多くの人の中から最終的なパートナーを選ぶことができるという、選択肢を増やすということは、種の保存のための本能であるのだろう。


●装飾   2021.8.10
「閉会式つまんないね」「ダラダラした演出で選手がかわいそう」などの式典中も酷評が続いた。開会式については「感動した!」という意見と「何年もかけて準備した結果がこれ?」という風に意見が分かれたようである。しかしやはり終わりは潔く締めたいものだ。長くて1時間で良いだろう。あと、話題になっているのいが「近代五種の馬術で騎手のいう事を全く聞かなかったお馬さん」だ。これについても「ルールに問題あり!」「騎手が可哀そう!」という意見と「馬の扱いを含めての馬術だろ!」「馬のコントロール下手過ぎ!」という風に意見が分かれた。しかしこの映像を見て思ったのは、馬場の障害のデザイン(というか飾り付け)である。これはひでぇ!人間で言えば走り高跳びのバーを乗せるポール部分になぜ「傘」や「和太鼓」があるんだ?「日本」と大きな文字で書かれた看板とか、目を覆いたくなる装飾である。中学校の学芸会レベルだ。TV放送の予定が無かったから適当に飾り付けしたのだろうが、センスの欠片もないとはこのことだ。というかこんなところに装飾は不要だろ!こんなおどろおどろしい障害では馬だってびびって飛ぼうとしないだろう。


●八百長   2021.8.09
プロレスは全ての試合が八百長である。講談師神田伯山によれば千代の富士の53連勝も八百長であり、笑点の大喜利も全て八百長である。しかし水戸黄門を誰も八百長とは言わないのはなぜだろうか?そもそもがエンタメというものは、「八百長」や「やらせ」、つまり「演出」がなければ面白くも何ともないのだ。だからテレビ番組の多くは予め収録した映像を編集して放映しているわけである。ナマ放送であったとしても、緊急のニュースなど以外は、放送作家や演出家が作ったストーリーに沿って演出しているだけなのだ。もし「演出」も「やらせ」も「八百長」もない映像があったとすれば、ものすごーくつまらない退屈なものになるはずだ。知り合いの家で子供の運動会のビデオを見せられれば分かる。


●てんてこまい   2021.8.08
講演会を開く。主催者は準備にてんてこまいである。液晶プロジェクタとスクリーンをセッティングする。パソコンでWi-Fiの設定をする。ソーシャルディスタンスを確保した椅子を並べる。芳名帳と筆記具を準備する。体温計と消毒用のアルコールを準備する。そうこうしているうちに来客が始まる。慌ててレジュメとアンケート用紙を準備する。ということで主催者は準備にてんてこまいである。なぜてんてこまいかと言うと、全部自分でやろうとするからである。全部に首を突っ込み一つのことが終わってないうちに次のことをやろうとして、自分でも何をしていいのか分からなくなり、何を血迷ったかそのクソ忙しい時に準備中の会場の写真を撮ってSNSにアップしたりもしている。そんな時に限ってケータイに電話が来る。会場の場所が分からないという人からだ。それに対して相手に見えるはずはないであろう、大袈裟な身振り手振りで説明している。こうして何もかもが中途半端なままで開演の時間がやってくる。こんなふうにならないためには、まずは役割分担をはっきりさせる(自分の担当以外のことには絶対に首を突っ込まない)。準備には十分な時間を確保しておく(早く終わればお茶するぐらいの)。まあ、それでも何をやってもてんてこまいになってしまうという人は、たぶんそれが宿命だから仕方がないのであろう。俗に言う「あわてんぼう」ってやつだ。


●自然淘汰   2021.8.07
感染者数が急増して怯えてる人も多いことだろう。相変わらずマスコミも政府も日本国内の感染者数だけを見て「大変だー!大変だー!」と騒いでいる。世界の感染者数は既に2億人を超え、1日に50〜70万人が感染し、1日に1万人が死んでいる。この流れの中で日本だけが別ということはあり得ないだろう。世界90カ国で依然として増加しているのだ。アメリカでも1日の感染者数は1万人を超える日が続いている。「ワクチン?それが何か?」というような状況である。で、そんな中、日本はどうしたらいいのか?ということになるが、まず「感染者数の増加を国として防ぐ手立ては無い」「かといって感染者数は無限に増えることはなく、ある程度増えたら、放っておいても減少に転じる」「それまでの間に感染しちゃった人は仕方がない」という感じなのではないのだろうか。どんな手立てを講じたところで、わらわらと人混みの中に湧いて出る知能の低い連中がいる限りは手の施しようがない。ロックダウンした国でも解除したら元に戻るの繰り返しである。賢い人間は極力人との接触を避け生き残り、バカは人混みの中に自分から入っていき感染して死んでいく、という自然淘汰の構図がなんとなく出来ているようにも思うのだが、いかがなものだろうか?


●かぶり物   2021.8.06
街中で寝ているイヌの傍らにそうっと大きなライオンのぬいぐるみを置く。目覚めたイヌはぶったまげて脱兎のごとく吠えながら走って逃げていくというドッキリ。しかしイヌが実際のライオンを見たことはないはずだ。きっと「恐ろしい生き物」としてDNAに組み込まれているのだろう。動物園のサル山に宇宙人のかぶり物をかぶった人間が入っていくとサルたちは無反応である。ところがゴリラのかぶり物をつけた途端にサルたちは血相変えて逃げ惑った。これもDNAに組み込まれているのだろう。実際のゴリラを見たことのある動物園のサルなどいないはずだ。それに比べると人間はどんなかぶり物に対しても驚く。それがゾンビであっても死神であったもフランケンであっても美輪明宏であってもだ。見たことの有る無いにかかわらず、DNAとも関係なく。それだけ人間が「高等な生き物」なのか「おめでたい生き物」なのかは分からない。


●2人はすぐに辞めるべきだ   2021.8.05
宇都宮市のインターパーク倉持呼吸器内科の倉持仁院長が菅総理と小池知事に対して「2人はすぐに辞めるべきだ」とテレビで発言した。こいつバカなんだなぁと思った人も少なくないだろう。2人が辞めたとしてら誰が総理と知事をやればいいの?ということだ。というか新たな総理と知事を決めるとなれば、そこに膨大な時間と費用をかけて選挙というものをやらなければいけない。そして新しい総理と知事が決まったところで独裁者じゃないんだから周囲の色々な人の意見を聞いて最終的な判断をするはずなので、今と状況は大きくは変わらないということになろう。自分が嫌いな物、気に入らないものだけを否定するのは愚かだ。わがままな子どもが「ピーマンは嫌いだから食べない!」と言っているようなもんだろう。対案を出さずに批判ばかりしているどこかの党と同じだろう。こんな医者には絶対にかかりたくないものだ。いやTBSに言わされているだけなのかもしれない、と思いきや自身のtwitterでも同じことを呟いているようなので真正の愚か者なのだろう。一度医者に診てもらったほうが良い。


●FAX   2021.8.04
NHKのオリンピック番組で、視聴者の皆さんからのFAXを紹介している。このことに対してネットでは「何で今の時代にFAX?」という否定論と「FAXは今でも便利!」という肯定論が入り乱れている。ネットが普及する前の時代であれば否定論はほとんど無かったはずであろう。一般的に普及した「ある物」が消滅するまでには、それ相応の時間がかかる。FAXもその途上にある。ただしまだ多くの肯定論者がいるというだけのことだ。あと10年経てば否定論の割合はもっと増え、肯定論者が減ってFAXというデバイスが収益ベースから脱落したときに正式に消滅するのだろう。いずれにしても公衆電話、固定電話、ワープロ、iPod、ガラケー、ビデオデッキ、レーザーディスク、新聞などと同じ運命を辿ることはほぼ確定している。ただ消滅するまでには長い時間がかかり、今はまだその途上にある、というだけのことだ。


●確率   2021.8.03
「新型コロナウイルス感染症対策を講じて」という言葉が公然と使われている。あたかも「新型コロナウイルス感染症対策が講じられているから大丈夫」というふうに捉えられる。しかしよく考えてみよう。東京都の1日の感染者数が仮に5000人になったとしても、その日に感染する確率は2000分の1以下なのだ。つまり感染症対策を講じようが講じまいが、ほとんどの人は感染しないということだ。そして感染症対策を講じたころで直径100nmの新型コロナウイルスを体内に入れないようにすることはほぼ不可能なはずだ。ということは「新型コロナウイルス感染症対策を講じて」という言葉は、講じた場合と、講じなかった場合との比較実証実験もしていない「気休め」でしかない。人混みに入った途端にマスクをしていようがワクチンを2回接種していようが感染る時は感染る。「気休め」を真に受けて、そそくさと出かける回数が増えれば増えるほど感染る確率も増えるということだ。確率は絶対にウソをつかない。


●元栓   2021.8.02
世界の人口は毎年8000万人ずつ増えている。人口が増えれば密になる。密になれば感染症が発生し蔓延する。しかも増えた人類はやたらと移動したがる。移動すれば自分の持っている菌やウイルスを移動先にばら撒いてくると同時にもらってくる。人間が運ぶ菌やウイルスの量はゴキブリやネズミの比ではない。しかも人類は1日で何万キロも移動することもできる。人口増加という元栓を閉めない限り感染症は治まらない。もはや人類に残された感染症を防ぐ選択肢は2つ「人口を増やさない」か「移動しない」のどちらかになる。しかし元栓を急に閉めることはできない。だったら移動するなということだ。それでも移動したがるという、何と愚かで滑稽な人類たちなのであった。


●手間   2021.8.01
手間をかければ良いものができる。しかし誰しも手間はかけたくないと思っている。手間をかけるには手間がかかるからだ。そして人は何らかも見返りがないと絶対に手間のかかることはしない、にもかかわらず他人には手間のかかることを無償で安易に要求したりもする。世界中の人々が何もするにも一手間かけるようにすれば素晴らしい世の中になることだろう。しかし世界中の人々の多くは、いかに手間をかけないでものごとをやり過ごすか。ということを考えている。こういった考え方を改めるには、これまた手間のかかるハナシとなる。



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