似顔絵オーダーVARIOUS
似顔絵蘊蓄日記

未来人の顔は?-鼻と口は矮小化  2024.12.4
口は人間の体の中で最も野蛮で原始的な部位です。食物を消化できる形体になるまで破壊し噛み砕くという機能を備えているわけですから、工作機器や重機のような外観になってしまうわけです。

しかし柔らかい食品が増える、または食物を口で噛み砕く必要が薄れてくるとすれば、現状のような野蛮で原始的な口腔は必要なくなります。もしかすると食物の多くは、錠剤や液体で用が足りるようになるかもしれません。

さらには食事という習慣も無くなるかもしれません。少なくとも「大勢の人が集まってみんなで食事をする」ということの必然性はなくなるのではないでしょうか。現在でも「大勢の人が集まってみんなで排泄をする」という習慣はありません。

そして食物を食べて良いかどうか判定するための鼻という部位もその必要性は薄れてくることでしょう。

口と鼻は呼吸をするための孔、または体内の不用物を外に出すための孔、という役割りだけになっていくことでしょう。 矮小化していくのは必至です。歯は退化して無くなっているかもしれません。

未来人の顔は?-ベビースキーマ  2024.11.7
容姿端麗な顔の割り合いが増えたとしても、その容姿端麗と言える基準は美男美女ではなくなっていることでしょう。

美男美女には時代による基準の変化と、明らかな「好み」というものがあります。

しかし「好み」とは関係なく、老若男女、いつの時代でも好感を持たれるのが「ベビースキーマ」です。「ベビースキーマ」とは、かわいい感情を喚起させる特徴で、目の位置が下方向にあり大きく、口や鼻は小さな丸顔で、「かわいらしさ」「いとおしさ」「愛くるしさ」などを感じさせる顔です。これは人間の本能であるとも言えるでしょう。

またアニメの多くがこの「ベビースキーマ」でもあります。それだけ万人受けするということにもなるでしょう。 柔らかい食品が増えたことで鼻や口が矮小化していくことにも連動しているのかもしれませんね。

未来人の顔は?-ブサイクの淘汰  2024.10.1
令和の子供たちは、明らかに容姿端麗な顔の割り合いが増えてきているようです。

昭和の時代であれば、クラスに何人かはいたはずの、明らかな不細工な顔の子供は見かけなくなっています。

生活水準の向上や柔らかい食品が増えたことなどの要因も考えられなくはないですが、それらだけではこうまで不細工の排除はできなかったはずです。

そこで考えられるのがインターネットの普及ではないでしょうか。インターネットが普及する以前は、見合い結婚などという制度がありました。また結婚相手は自分たちで決めるのではなく、両親や親戚、会社の上司や村の長が決めたりするケースもありました。そうなると相手の器量の良し悪しとかは関係なくなってしまいます。選択肢も限られていたし容姿端麗な相手と出会う可能性も低かったはずです。 しかしインターネットが普及すると、マッチングアプリなるものが登場し、SNSが普及したことによって、数多ある候補の中から厳選することが可能になりました。

そうなると当然のことながら不細工は淘汰されていきます。その淘汰された不細工ではない人たちの子孫は、当然のことながら容姿端麗な方向に進化していくことでしょう。

マイケル・ジャクソンの似顔絵  2024.9.1
マイケル・ジャクソンの亡くなる直前のころの似顔絵は、描いていても何だか面白くありません。

整形のし過ぎで顔の表情が無いからなのでしょう。ただ形状をトレースしながらデフォルメをするだけの作業になってしまいます。

同様のことは、弘田美栄子、ミッキーローク、ドナテラ・ヴェルサーチ、林葉直子などにも言えることなのでしょう。こういった整形し過ぎの人たちの似顔絵は、人間という有機体というよりも、ロボットや機械などの無機物を描いていつような気分になるのです。

人間の顔は静止画ではありません。生きている間は常に動画なのです。例え寝ているときでも、血流や呼吸によって僅かに動いています。引力に逆らうかたちで常に皮膚は張っているのいです。

恐らく整形手術というのは、静止画の写真を参考にして行われるものなのでしょう。だからといって麻酔で寝ている状態の顔を、動画を参照しながらは手術はできません。

いずれにしても、自動車のデザイン画を描いているような気分で描けば、つまらなさから解放されるかもしれないですね。

AIに職を奪われる-3  2024.8.1
では具体的にはどんな描き方をすればいいのでしょうか。

まずはインターネット上に公開されている写真や動画からは想定し得ない似顔絵を描く、ということでしょう。 一般的な概念や常識からは連想できない形状にデフォルメするということです。 そして以下のように言葉では説明しきれない表現にしておく、ということになるでしょう。
ただし
とかでは、比較的言葉で説明しやすいので、すぐにAIに追いつかれてしまうかもしれません。

上記はなかり描き込んだ作品ばかりですが、逆に描き込まなくても、とりあえずは物理的に有り得ない形状にしておくことで、AIからの追及は当面の間、回避できることでしょう。
ただし最後のSUZUKAは、AIがバグってこんなふうになることもあるので注意が必要です。

AIに職を奪われる-2  2024.7.1
CGの似顔絵の場合は、最初から生成AIと同じフィールドにいるために、生成AIと戦うためには極めて不利が状況にあるようです。

ではアナログの手描きの場合はどうでしょうか?

CGの場合は1670万色の色数×ピクセル数という、表現の範囲に限界があります。しかしアナログの手描きは無限です。従って、CGの技術がいくら進歩しても、油画や日本画が無くならないのと同様に、アナログの手描き似顔絵が消えることは無い!というのも1つの考え方でしょう。

しかし、油画や日本画が無くならないかというと、これも断言はできないでしょう。すくなくとも30年前のGIF256色に比較すれば、現在の16Kフルカラーの画像は、格段の進歩であり、もはや一般の人は(人間の目では)その違いを判別できない域にまで達しています。

そう、CGや生成AIの技術者た開発者は、アナログに追いつき追い越すための努力を日夜続けているのです。

対して、アナログの手法のほうは、デジタルに追いつかれないための、何か工夫をしてきたのか?というとそうでもないようです。

そうなれば追いつかれるのも時間の問題と言ったほうがいいかもしれません。

例えば観光地などでの「席描き」にしても。ロボットが取って変わる時代がくるかもしれません。そしてそのロボットは。モデルを高速スキャンして、似顔絵のデフォルメの要素を加味させた、ストラップサイズの3Dモデルを3Dプリンターから出力できるようになるかもしれません。

そうなると「いやいや手描きのほうが味わいがある」とかは、言ってられなくなるでしょう。

AIに職を奪われる-1  2024.6.1
似顔絵作家、似顔絵師、似顔絵イラストレーターの多くが、存続の危機に瀕しているということをご存知でしょうか。

その要因は、言うまでもなく生成AIの存在です。幸にしてまだネット上に公開されている、似顔絵の作品数も少なく、開発者側の本気度も低いために、危機感を実感として感じている人も少ないことでしょう。 しかし似顔絵には、AIに生成されやすい要素も多分に含まれています。
  • 単純な線(少ないデータ量)で表現が可能
  • 描くだけでいいので、ネット上で公開される作品数は増加し続けている
  • 肖像権や著作権が影響する範囲が曖昧のままである
  • 似ている、似ていないの判断は、個人に委ねられる範疇であることが多く「やったもん勝ち」となる
  • CGで描かれている場合は、生成AIと同じフィールド内にいることになる
というような点が挙げられるかと思います。

「AIに職を奪われる」職業の中に、似顔絵師もガッツリ含まれているということを理解しておきましょう。

同時にAIには描けない似顔絵を描くにはどうしたらいいのか?ということは、常日頃から考えておきましょう。

欧米人は口、日本人は目(2)  2024.5.1
もう一つの理由は、西洋人が彫りが深い、ということです。彫りが深いと額から目までの距離が大きく、日中の白昼光の下では目は額の影に隠れて見えなくなるのです。

そして欧米は湿度が低い地域が多く、空気中の水分量が少なく、水滴による乱反射が起こりにくいために、影は鮮明にくっきり見えます。鮮明にくっきり見えると、その分、影の中の部分は見えにくくなります。さらに西洋人は瞳の色が薄いため、より一層目と目の周辺のエリアは他人からは見えにくくなります。

日中の白昼光の下では、視力による個人差もありますが、かなり接近するまで、目の表情は他人から判別することはできなくなるでしょう。

日本人が、全く額による影ができないわけではありませんが、欧米人に比べれば、額の影で目の表情が見えにくくなる確率は低いことでしょう。

欧米人はマスクを外したがる、日本人はマスクをつけたがる、という傾向があるようです。このことも、欧米人は口、日本人は目、によって感情を判断する、ということろにも起因しているのでしょう。

欧米人は口、日本人は目(1)  2024.4.1
顔の表情で感情を判断するとき、欧米人は口、日本人は目、とよく言われます。ではなぜそうなのでしょうか?

まず、西洋の国々の多くは隣国と陸地で接していて、今までも、そして今でも、その国境線を巡って争ってきました。ですので道で見ず知らずの他人と出会ったときには、お互いに不用意な戦闘を避けなければなりません。

そのためには、敵意が無いことを相手に伝えなければなりません。そのためには笑顔が必要です。それも相手が銃を構える前に。

そしてそいった危機感が発生することの少ない日本人は、道で見ず知らずの他人と出会ったときに、特に笑顔は必要ありません。目を細めて軽く微笑み会釈をするぐらいで十分なのでしょう。

欧米人は、道で見ず知らずの他人と出会ったとき、その相手が、どんな民族で、どんな宗教で、どんな思想なのかは瞬時には分かりません。だから大袈裟な笑顔で、相手に敵意が無いことを、お互いに示さなければいけないのです。

そのためには目を細める程度では、相手に伝わりません。稼働範囲が大きく、遠目にも明らかに分かる、口による笑顔の表現が安全なのでしょう。

有名人の似顔絵の参考画像  2024.3.1
有名人の似顔絵を描くときには、Googleで有名人の似顔絵を画像検索して、その画像を見ながら描くのが普通のようです。そしていくら描いても似ないという場合もあります。

そんなとき、その原因の多くは描く人の画力ではありません。選んだ画像が悪いのです。人はなぜその人という個体が判別できるこということを考えてみましょう。

それは顔だけではないのです。声や歩き方、動作の癖なども個人を判別する上での要素となっているのです。そしてその人がそこに居るという事実を周囲の人が知っているから、そこに居るのがその人であるということが認識できるのです。

画像(写真)には声もなければ、動作の癖も無いのです。そして顔の物理的な個性というのは、本当に僅かな部分でしかないのです。

つまり、選んだ画像(写真)は、静止画であっても、その人の個性が強烈に表現されていなければいけないのです。

そして選んだ画像(写真)の、どこの部分が、その人の個性が表現されているのか?また、どの部分が、個性的ではないのでスルーしても問題ないのか?ということをを、描く前によぉく考えておかないといけないのです。

モンタージュ写真  2024.2.1
モンタージュ写真は、目撃者が記憶している犯人の顔に、顔の輪郭や髪型、眉、目、鼻、口などそれぞれの部分について目撃者がよく似ていると判断した写真を選び出し、それらを用いて合成して一つの顔写真とすることでつくられます。

昭和40年代の後半には、多数の事件(多い年では1000件)で用いられましたが、現在では、目撃者の記憶を基にして犯人の容貌を再現する方法としては、かえって似顔絵の方が、特徴点を明らかにしやすく、全体のイメージが得られやすいことから、犯罪捜査にモンタージュ写真が用いられることはほとんどなくなっているそうです。

確かにモンタージュ写真では、顔の輪郭や髪型、眉、目、鼻、口の形状は近いものが再現できたとしても、その位置までは再現できません。似顔絵でも形状の前に、まず位置を間違わないことが重要です。

配置する部品の位置を間違えると、全く印象が変わってしまい、置く位置を間違えた将棋の駒と同じで、効力が全く発揮できなくなるのです。

ちなみにモンタージュ写真という言葉で真っ先に思い浮かぶ「3億円事件の犯人」の写真は、実はモンタージュ写真ではなかったとのことです。3億円事件の1年半前に自殺した警察幹部の息子の写真だったそうです。現金輸送車の運転手たち全員が「似てる!」と言ったので選ばれたそうなのです。

アートと奇形  2024.1.9
アート作品が奇形を連想させることがあります。

ルドンのキュクロープスは単眼症を連想させますし、ピカソの泣く女からトリーチャーコリンズを連想する人もいるでしょう。プロテウス症候群を連想させる絵画作品は少なくないですし、マグリットの桟敷席は、もろに結合双生児のアビー&ブリタニー姉妹です。多面フェイス彫刻家、金巻 芳俊の作品も、顔の半分ずつを共有するようなかたちで癒着してしまった、3つ目の結合双生児を連想させます。もちろんアートなので表現の自由という解釈もできるでしょう。

ただし、アートとして認識されていない、似顔絵の世界では、奇形を連想させる作品は「良くない」とする考え方の人もいるようです。

その辺の、ボーダーラインは実に曖昧です。例えばプロテウス症候群がアルチンボルドの変人に好かれる奇人を見たらショックを受けるでしょうし、ピカソの女の顔を、トリーチャーコリンズの人は直視できないことでしょう。

だから曖昧のままにしておいたほうが良いのではないかと思います。

アニメの目はなぜ大きくなった?(5)  2023.12.1
目を大きく描くのは最も感情が現れやすい部分だから、という人がいますが、それは嘘です。

目を大きく描けば描くほど感情は現れにくくなります。目を大きく描けば描くほど、どこを見ているかが分からなくなりなす。感情は眉毛で表現すればいいのです。

そして目を大きく描けば描くほど、天然で能天気で緊張感の無い雰囲気になります。言い換えればそれだけフレンドリーで親しみの持てる表情になるのです。

逆に目を小さく描けば描くほど、どこを見ているかがはっきりとした怖い顔になります。アニメの悪役は大抵は小さい目をしています。特に黒目が小さく描かれています。

能面でもどこかを凝視しているシーンで使う面の目は小さく、どこを見ているか分からない面の目は大きく作られています。

そして大きく描かれて、どこを見ているかが分からない目ほど、使い回しが効くのです。これが商業的に大きな理由かもしれませんね。

「アニメの目はなぜ大きくなった?」については5回に渡ってぐだぐだと説明してきましたが、ひとことで言ってしまえが「人間は大きくて光るものが大好きだ」ということなのです。だから多くの人が隅田川の花火大会を観にでかけるのです。

アニメの目はなぜ大きくなった?(4)  2023.11.1
目というのは透明な球体に囲まれた、フォルムも構成も美しい形態をしています。ということは前にも書きました。そして美しい形態というのは球形です。球形には最も強いハイライトが1箇所しか入りません。透明な球体は光を透過する部分と反射する部分があります。言ってみれば「光モノ」なのです。

人間は基本的に「光モノ」が大好きです。ダイヤモンドも光の透過と反射があるから美しいのです。そして美しい物は誇張して描きたくなります。だから描いてるうちに気がつけば必要以上に大きくなっているのです。

「光モノ」は描いていて最も楽しい部分でもあります。クルマを描くときのヘッドライト、建築物を描くときの窓ガラスの反射と透過、そこをいかにドラマチックに仕上げるかがポイントにもなります。

pixivにアップされているイラストを見ると、いかに目を描くのに時間とパワーを使っているかが良く分かります。ようするに目を描くのが好きというより「光モノ」を描くことが人間が本能的に好きなのです。

アニメの目はなぜ大きくなった?(3)  2023.10.1
それともともと日本にはマスク=カッコいい、というイメージがあります。古くは鞍馬天狗や月光仮面(今見ると完全な医療従事者)、ロビンマスクやウォーズマン、遊戯王にも沢山のマスクドヒーローが登場しますし、ビックリマンチョコにもアリババ神帝とかが登場します。これらのマスクドヒーローたちは鼻と口という醜い部分を隠してカッコよく見せているだけなのです。

昔のビデオデッキやテレビ、オーディオ機器やカラオケマシンなどで、本体の下のほうにフタがついているのを見たことがあるでしょう。そしてそのフタを開けると、使用頻度の低い微調整用のツマミやボタンがついています。つまり使用頻度が低く、見た目も美しくないものは、普段はフタで隠しておくという発想です。

このフタが現在のマスクに該当するということなのです。

そもそも口というのは、生物が生物として誕生したときから備わっている原始的な臓器です。捕食という攻撃をするための野蛮で恐ろしい形状をした部位でもあるのです。鼻はその捕えたモノが食することができるかどうか判定する役割を果たしています。目が登場したのは、口や鼻のずうっと後なのです。

そして入り口である口の反対にあるのが肛門です。肛門をさらけ出したまま街を歩いている人がいないように、口も隠して街を歩くような時代が来るかもしれません。

正式の場、公の場、で靴下を履いていない人はいません。夏の暑い日でも靴下を履いています。これは足の指というものが、原始的で醜い形状をしていて、爬虫類や恐竜を連想することがあるからなのでしょう。

アニメの目はなぜ大きくなった?(2)  2023.9.1
ではなぜ大きくなったというと、単純に「口や鼻は大きくできなかったから」ということになるでしょう。もっと言えば「口や鼻は描きたくなかったから」ということになります。

目というのは透明な球体に囲まれた、フォルムも構成も美しい形態をしています。これに対して口は、歯、歯茎、舌、唇など、部品数も多く、煩雑で美しく無い形態をしています。これが感情やタスクによってフォルムやサイズが大きく変わっていきます。目は、眼球という透明な球体が常に固定され、瞼やまつ毛などがその球形に沿って移動するだけのものなのです。つまりデザイン的に見ても目は口よりも圧倒的に美しいのです。

鼻に至っては、その形状が醜過ぎます。凸凹した肉の塊の下に大きな穴が2つも空いているのです。メインの部分に穴を空けるなどということはインダストリアルデザインや建築デザインでは考えられません。

最近のアニメではどんどんと鼻と口が小さくなっています。鬼滅の刃の鬼でさえ口は小さく表現されています。名探偵コナンに至っては、有り得ない小さくとんがった鼻の形状をしています。現在の若者社会全体が鼻と口を亡きものにしようとしているようにも感じます。だからコロナが収まってもマスクを外さない若者もいるということにもなるのでしょう。

アニメの目はなぜ大きくなった?(1)  2023.8.1
ある日突然大きくなったわけではありません。江戸時代の浮世絵でも分かるように昔は小さかったのです。

ところが、江戸時代後期に若干目が大きく描かれた浮世絵が現れ始め、明治になり竹久夢二が大きな目の美人画を描き始め、大正になってからは中原淳一、蔦谷きいちなどが大きなお目目の作品を世に送り出しました。

昭和になると、多くの漫画家が目玉の極端に大きなヒロインを描きました。代表的なところでは、ふしぎなメルモ(手塚治虫)、ひみつのアッコちゃん(赤塚不二夫)、アタックNo.1(浦野千賀子)などがあります。

恐らくこの時代が、大きなお目目のピークではなかったかと思います。

ところが大きなお目目をそのまま男性にすると、いささか(今の言葉で言うと)キモい顔になってしまい、アニメの中でもの絵の整合制がとれなくなってしまうので、今ではそこそこの大きさで止まっているようです。

しかし現在でも、一部のアニメや漫画では大きなうるうるした目のおじさんとかが登場してしまうこともあります。どう見ても(今では使えない言葉で言うと)オカマにしか見えません。これは普段女性ばかりを描いている作家が、男性を描いた場合に、目を描くスキーマが刷り込まれてしまっているために起こる現象なのです。

そしてさすがに作者も「ちょっとへんだなぁ」と思ったのでしょう。男っぽく見せるために髭が描き加えられていることも多いようです(目はうるうるのままで)。

力士の似顔絵  2023.7.1
以前、力士(相撲取り)の似顔絵を描くのは難しいということを書きました。その理由としては、
①体型がみんなだいたい同じで太っている
②ヘアースタイルが全員同じ
③全員ほぼ裸である
④メガネをしていないし髭をはやしていない
などがあるのですが、そこは似顔絵作家の技術力で何とかカバーできる範囲であります。

しかし技術ではどうにもならない問題があります。それが「四股名」です。同じ四股名が何代に渡って使われているので、何代目を描いたのか分からなくなります。これは落語家や歌舞伎役者でも同じですが、力士の場合は現役で活躍できる期間が短く、引退すると断髪して襲名してダイエットするので別の人になってしまうのです。

それと、とにかく似たような四股名が多いという問題もあります。テレビの解説者が間違うくらいですから、似顔絵に四股名を添えても、相撲通でも幕内上位以外は分からないというケースも少なくないでしょう。

ということで、力士を描くことで、その似顔絵作家の実力がモロに分かってしまうという、恐ろしいカテゴリーでもあったりします。

目が死んでる  2023.6.1
この人は目が死んでいる、と感じたことはありませんか?

そうです、人間はやる気が全く起こらなくなったり、深い絶望感を感じたり、放心状態になったりしたときに目が死んでしまうのです。

でもそれは目が機能しなくなるのではなく、目が相手の顔を追わなくなり、空や任意の1点を見つめて目から脳に送る情報量を制限しているのでしょう。

逆に「目を輝かせる」というのは、目から光を発しているわけではなく、常に相手の目を目で追従しているので輝いて見えるということになるのです。眼球というのは球形なので光源が太陽光のように1ヶ所だった場合には、そのハイライトが相手の目を追従することで、相手の視野の中心になるためなのです。

従って「目が死んでいる」と感じさせる人は、相手の目から的が外れているということになります。

そして「目が死んでいる」という人の中には「常に目が死んでいる」という人間もいます。何かの偏った思想や宗教に侵されている人の中に多いようです。

そういった人たちは基本的に他人の話を聞いていないので、相手の目をきちんと見る必要がないのです。だから死ぬまで死んだ目のままで良いのです。

自分で描いた自分の似顔絵  2023.5.1
自分の似顔絵を自分で描く人がいます。ところがそのうちの95%の似顔絵は似ていません。

本来は自分に似せるという目的で描いていたはずのものが、似せる→理想に近づける、になってしまうためです。

鼻が低い人は鼻を少し高く、口がでかい人は口を小さめに、肥えている人はやや細めに、という具合になるのです。 特徴を全て潰していくわけなので、似るわけがありません。

しかしその絵を知人や友人に見せると誰も「似てない」とは言いません。見せるときに「これ、私の似顔絵」と言われれば、見る方も「○○さんなんだろうなぁ」と思って見るので、なんとなく似てるように見えてくるというもの。

本来は、見せるときに「これは誰の似顔絵でしょうか?」と聞いてみて、その回答が間違っていた時点で、その似顔絵は似ていないということなのです。 では残りの5%は?といえば、本当の意味で自分を客観視できる人ということなのでしょう。

モノマネ芸人  2023.4.1
「似顔絵ってモノマネと似てますよね」とモノマネ芸人の松村邦洋に言われたことがあります。確かにモノマネ芸人が披露するネタの中にはデフォルメのために参考になるものが多いことも事実です。

ところがモノマネ芸人の似顔絵を描くというのは簡単ではありません。モノマネ芸人が誰か有名人のモノマネをしている状態の似顔絵は、モノマネ芸人の顔ではなく、モノマネされている有名人の「ちょっと似ていない似顔絵」になってしまうのです。

上記の松村邦洋のように、声や喋る方のモノマネがメインで、モノマネをしていない時の露出も多く、顔が個性的であれば似顔絵を描くのは比較的簡単です。しかし顔が有名人にもともと似ているモノマネ芸人は、本当に難しいです。みちょぱのモノマネするみほとけ、滝川クリステルの金原早苗、本田圭佑のじゅんいちダビッドソンなどなどです。特にレパートリーが豊富で、モノマネしていないコトの方が少なく、本当の素顔がほとんど分からないミラクルひかるなんかは、最も難易度が高いです。

お笑い芸人  2023.3.10
お笑い芸人の似顔絵を描くことは、美形の俳優に比べれば10倍簡単です。美形の俳優はそもそもが標準顔に近いから美形なわけで、標準からの距離が遠く、個性的な顔が多いお笑い芸人の難易度が低いのは当然と言えば当然なのです。

ところが例外もあります。元々の顔が比較的無個性で、表情だけで勝負しているお笑い芸人。また特有のメイクや衣装で独特のキャラを演じているようなお笑い芸人などは簡単ではありません。例えば志村けん。志村けんの似顔絵を描こうとする場合、それはバカ殿だったり変なおじさんだったりひとみ婆さんだったりします。つまり志村けんが演じる固有のキャラであり、志村けん本人の似顔絵にはならないのです。

本当かな?と思った人は、試しに志村けんの素顔の似顔絵を描いてみてください。デフォルメできる箇所が無いことが分かるはずです。 志村けん本人は、眉毛が太い以外には、これといった特徴はありません。無いからこそ、表情で演じているのです。従って似顔絵でデフォルメしようとする部分は、もう本人が表情でデフォルメしちゃっているのです。

特徴のない部位は描かない  2023.2.1
人は他人の顔を見た時、その顔を記憶に残そうとします。しかし記憶に残せる部位は限られています。通常は特徴的な部分を優先的に記憶します。

例えば、顔のシルエットが特徴的であった場合には顔のシルエット、耳が特徴的であった場合には耳、ヘアースタイルに特徴があった場合にはヘアースタイル、特徴的なメガネをかけていた場合にはメガネ、といったぐあいにです。会っている時間が短ければ短いほど、記憶できる部位の数は少なくなります。

この記憶に残る部位と特徴的な部位は比例しています。同時に特徴的では無い部位は記憶に残らないどころか、何十年感も会っている人であっても覚えていません。例えば「あなたのお母さんはどんな耳の形をしていますか?」と聞けれても、ほとんどの人は「さあ…」とか「ふつー」と答えるでしょう。よほど「大きい」とか「福耳」で無い限りは印象に残っていないのです。

この「印象に残っていない」部位は似顔絵に描く必要はありません。描いたところで、見る人の多くは覚えていないのですから。例えば全く特徴のない顔のシルエットの人であっても、絵としての画面上の辻褄を合わせるために とりあえずは顔のシルエットを描いてしまいます。しかしこの「特徴のない部位は描かない」ということを徹底することで、より似ている似顔絵を描くことができるのです。ついでに制作時間も短くて済みます。

ソフィア  2023.1.2
商品企画部にソフィアという影のあだ名の女性がいました。影のあだ名なので、もちろん本人の前ではソフィアなどとは呼びません。なぜソフィアなのかと言えば、その風貌からソフィア・ローレンに似ているということから来ていたようでした。

ソフィア・ローレンに似ているということは、よほどの美人だったのかというと、そうではありません。当時はスクリーン、ロードショーといった映画雑誌がありました。その表紙にはハリウッド女優の顔写真のアップが使われることが多くありました。しかし外人の女優の顔のアップは、歯を見せて派手な口紅を塗った大きな口で微笑んで、濃いアイシャドーと太いマスカラを塗った目は大きく見開いていました。普通は口が笑うと目は細くなりますが、女優やモデルは口は笑っても目を見開くという訓練をしているそうです。

そんな映画雑誌の表紙のソフィア・ローレンは、確かに美しいのですが、それ以上に「こわい」という印象を受けることもありました。商品企画部のソフィアの本名は忘れましたが、そのソフィアは、映画雑誌の表紙のソフィア・ローレンの「こわい」部分だけを抽出して、福笑いのパーツに落とし込み、商品企画部のソフィアの顔の上に配置し直したという感じだったのでした。背は低く、首が身体に埋まった感じのソフィアでした。

ということで、ソフィアのイメージは、みなさんの頭の中の想像の部分だけに留めておいたほうが話が面白くなるのです。絵は紙の上で辻褄を合わせなければいけません。頭の中の想像は辻褄を合わせる必要がないだけに、時間をも含めた次元の中を縦横無尽に行き来するので、想像は想像を超えて無限の世界に広がっていくのです。

羽生田さん  2022.12.1
羽生田さんは品質保証部の課長で、影のあだ名はハニーでした。影のあだ名なので、もちろん本人の前ではハニーなどとは呼びません。なぜハニーなのかと言えば、その風貌から最も相応しくないあだ名をつけることが一種のアイロニーのような感じで面白がっていたといったところでしょうか?

具体的にどんな顔だったかというと、シルエットの印象はガリガリくんとかカールのおじさん。髪の毛は普通でしかが、印象としてはつるっぱ。全体で白くてツヤツヤした感じでしたが、性格はねっとりした感じで、声は甲高いほうでゆっくりねっとり喋っていました。というのが全体の印象でしたが、本当はどんな顔をしていたかは覚えていません。

当時デザイン部には入社したばかりの背の高い篠田くんというデザイナーがいました。入社したばかりなので使いっぱが主な仕事でした。その篠田くんに「これ、品質保証部の羽生田さんに届けてくれないかな」と言うと、「はい。わかりました」「羽生田さんって分かる?」「いえ、分かりません。どんな人ですか?」「品質保証部に行けば、いかにも羽生田さんっていう顔の人がいるからその人だよ」「はい。分かりました」といって篠田くんは品質保証部に行きました。

すると篠田くんはすぐに戻ってきました。「わかったろ」「はい。すぐに分かりました」

ということで、羽生田さんのイメージはかなりファジーでボワッとしたものなのです。だからこういった場合には敢えて似顔絵を描いてイメージを具現化しないほうが話が面白くなるのです。

後藤さん  2022.11.1
後藤さんは電子楽器事業部の設計部次長でした。その顔は志村けんの変なおじさんにそっくりでした。顔が物理的に志村けんに似ていたわけではありません。髭の濃さや相手をちょっとバカにしたような目つきや仕草、本人は至って真面目なのですが、いつもどこかふざけているような表情や身のこなしが変なおじさんにそっくりだったのです。しかしもちろんピンクのシャツは着ていず頭のてっぺんも禿げてはいませんでした。

その変なおじさんにそっくりの後藤さんが、デザイン部にやってきて、デザイン部長と2人で会議室でなにやら打ち合わせをしていました。当時デザイン部には入社したばかりの口の大きい副島さんという女性がいました。そこで「ねえねえ、副島さん」「はい。なんですか?」「変なおじさんって知ってる?」「はい。知ってますよー」「今、うちに来てるんだよ」「えっ、ホントですか?」「会議室で部長と会議してるんだけど見たい?」「うん、見たい見たい!」ということだったので、副島さんに会議室にお茶を出しに行かせました。

「トントン、失礼します」と会議室に入った副島さん。お盆を持って会議室から出てくるなり、片手で口を押さえて自分の机に突っ伏して笑いを堪えていました。「いたろ?」と尋ねると、突っ伏したまま大きく2回頷いきました。

会議が終わって部長が出てきました。「後藤さんよぉ、ぎっくり腰で会社休んでたんだってさ」「え?そうだったんですか」「大掃除で会社の廊下にあった消化器を持ち上げようとしたら、その消化器は廊下に固定されてたんだってさ」

ということで、みなさんの頭の中には恐らく変なおじさんのイメージがあるはずなので、こういった場合には敢えて似顔絵を描かないほうが話が面白くなるのです。

顔絵  2022.10.1
似顔絵を「似」と「顔」と「絵」に分解するとします。そしてそれぞれに優先順位をつけると、①=「似」、②=「顔」、③=「絵」となります。

つまり似ていれば、それが顔である必要も、絵である必要もないのです。

逆に似ていなければ、どんなに優れた顔の絵であっても、それは似顔絵ではないのです。

しかし残念なことに似顔絵を描かれる多くの人が、自分の顔を分かっていないのです。つまりどんなに似ていても、それを似ていると判断できないのです。

だから「似ていない美しい顔の絵」が似顔絵としてありがたがられるのです。だから本人が描いてもらって喜んでいる似顔絵の多くが、似顔絵ではなく顔絵なのです。                         

東洲斎写楽の正体(3)  2022.9.1
もう一つ仮説があります。写楽彫り師案です。現在でもごく稀にではありますが、金型の加工を行っている職人が、製品の設計やデザインを行うということがあります。

金型の加工者は職人的な要素が強く、設計者が書いた図面を忠実に再現するのが仕事なのですが、彼らの中には「俺だったらこうするのに‥、ここはこうした方が良いはずなのに…」ということをいつも考えながら作業をしている人もいます。

当時の彫り師もみんながみんな絵師の描いた絵の通りに彫っていただけではないと思います。

彫り師の中には「俺だったらこうするのに‥」と思い、その思いを蔦屋に提案したところ、「じゃ、やってみるかい」ということになって実際にやらせてみた。彫り師なので苦労はない、勝手に彫らせて、あとは出来た版を刷り師に刷らせるだけだ。

まあ、これにはよほど絵心のある彫り師ではないと難しいとも思うのですが、少なくとも能役者よりは可能性が高いのではないでしょうか。彫り師は毎日毎日絵師の描いた絵を超間近で超長時間見ているわけなのですから。

写楽彫り師案、今度はどう思いますか?

東洲斎写楽の正体(2)  2022.8.1
漫画家が他界しても、その連載や放映が続いているというケースはたくさんあります。

つまり元々東洲斎写楽という人物は存在せず、版元の蔦屋に勤めていた絵師たちがと蔦屋のプロデューサーがみんなでブレストをしながら次の作品のコンセプトを決め、蔦屋所属の絵師たちが分担して原画を制作していったということはないでしょうか。

現在のデザイン事務所や大手企業のインハウスのデザイナーでも名前は表に出ないものの、スキルの高い優秀な作家はたくさんいます。彼らのスキルは阿波徳島藩お抱えの能役者よりも高いはずです。

もしかしたら蔦屋所属の絵師だけでなく、外部の歌麿や北斎などの有名な絵師に外注していたということも考えられないでしょうか。ライバルといってもそこはお互いにビジネス。OEM生産をしていたということで。

つまり東洲斎写楽はブランドのみで人物としては存在しなかった。とすれば途中で画風が急に変わったのも、10ヶ月で消えたのも説明がつきます。

という仮説ですが、みなさんはどう思いますか?

東洲斎写楽の正体(1)  2022.7.1
東洲斎写楽の正体は、現在では阿波徳島藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であるというのが定説となっています。有識者の間で、何年も議論されてきての結果なのだから、恐らくそうだろうとは誰もが思うところでもあります。

しかし絵を描く立場で考えると、本当にそうなのかな?と、疑いたくもなります。

まず、写楽の絵の観察力や表現力、その芸術性は人並み外れたものがあります。恐らく24時間365日、絵のことを考え、常にラフスケッチや習作を描いたりしていたのではないか?とも想像します。

そうなると、能役者を生業としていた人物が役者から絵師に転向して、いきなりあれだけの作品を残すことができたのか?という疑問が生じます。

能役者は能役者でそれ相応に大変な仕事です。藩お抱えともなれば、それなりに日夜能のスキルを磨き続けていたのではないかと想像します。その傍らで絵を描いていたとしても、それだけで、あのような作品を描くことが、本当にできるのでしょうか?

また、斎藤十郎兵衛は浮世絵を描くのを辞めてから、元の能役者に戻ったとされているようです。これもどうなんでしょうか?能役者は恐らく浮世絵以上に個性が出せない芸術ではないかとも思います。さらに激動の10ヶ月を経験した後に、また元の能役者に戻るということがモチュベーション的には無理だったのではないかとも想像するのですが、いかがなものでしょうか。

口は小さく(2)  2022.6.1
ではなぜマスクをしていたほうが明らかに美人に見えるのでしょうか?

それは靴下を考えてみると分かりやすいかもしれません。フォーマルな場所に行く時、人前に立つ時、などでは必ず人は靴下を履きます。

これは足の指を隠すためです。足の指というのは形状としての要素(部品数)が多く、デザイン的に機能優先で複雑で目を引きやすいのです。

またトリや爬虫類を連想させることもあるでしょう。

つまり口というのは、形状としての要素(歯や舌などの)が多く、食物を接種したり液体を排出したり感情によって形状が大きく変化したりと、なにかと慌ただしく忙しく、デザイン的に機能優先で複雑で目を引きやすいのです。

だから隠すことで美しく見えるのです。

ついでに「下品の象徴」とも言える「鼻の穴」も同時に隠せてしまうので、一石二鳥です。

ちなみに最近のアニメやイラストを見ると、鼻の穴が描いてあるキャラはほぼゼロです。

口は小さく(1)  2022.5.8
最近のアニメやイラストを見ると、口は異様に小さくなってきています。「鬼滅」の「鬼」でさえ口が小さく表現されています。

それだけ「口は小さいほど美しい」という概念が一般的に浸透しているようです。

この傾向は実は昔からありました。「喜一の塗り絵」「浮世絵」でも口は小さく描かれています。恐らく作者は「できれば口は無いほうが良い」とも思っていたのではないでしょうか?しかし実在するからには描かないといけない。であれば極力小さく描いておこう!ということになったのかもしれません。

なぜ口は小さいほうが良いのでしょうか?

それはコロナが収束したとしてもマスクをしないと外出できないようになってしまった人を見れば分かります。マスクをしていたほうが明らかに美人に見えるからです。

フィギュアスケートの選手の鼻の穴  2022.4.3
皆さんはフィギュアスケートの選手は鼻の穴が大きい人が多い、と感じたことはありませんか?

そうです、フィギュアスケートは人並み外れた酸素を必要とするために、やってるうちに鼻の穴が大きくなってしまうのです。というのはウソです。

実際には鼻の穴が大きいわけではありません。ではなぜ鼻の穴が大きく見えるのでしょうか?

普通、人間の顔には上から光が当たっています。ということは鼻の穴の部分は陰になって穴が目立ちません。 フィギュアスケートリンクも光は上から当たっています。しかし足元は氷です。氷はかなり高い反射率になります。つまりフィギュアスケートの選手は常に真下から強力なレフ板を当てられながら競技をしているのと同じなのです。

そして鼻の穴は、近距離の曲面の皮膚という反射率の低い壁に光を反射させながら減衰させていき結果として黒い丸に見えてしまいます。レフ板を当てられた鼻の下部分の皮膚と、黒い丸穴のコントラストが強いために穴が大きく見えてしまうという原理です。

フィギュアスケートは人並み外れた酸素を必要とするために、やってるうちに鼻の穴が大きくなってしまうのです。というのはくれぐれもウソですからね。

カツラ  2022.3.5
人間の顔を観察する癖がついてくると、気がつかないほうが良い部分も気がついてしまうようになります。その一つが整形、もう一つがオカマ、そして最後がカツラです。整形した顔は今まで見てきた顔のサンプルには無い不自然さがあるのでそれとなく分かります。オカマは基本的に骨格が男なのでだいたい分かります。そしてカツラが分かる要素はいくつかあります。
①顔を激しく動かしても髪がなびいたりそよいだりしない
②襟足の毛とてっぺんの毛が光の当たり方によって違う色に見える
③久しぶりに会っても髪の長さが同じ
④頭皮と髪のクリアランスが明らかに大きい
⑤へんな自信に満ちた顔をしていることが多い
などがあるので大抵の場合、分かります。

絵を見て感動する  2022.2.1
絵画を見て感動するというのはどういうことなんでしょうか?それは恐らくその絵画を描いた画家と、その絵画を見て感動した人との間で何か共有できる部分、シンクロする部分があることで起こる現象なのでしょう。

それは記憶であったり場所であったり人であったり温度であったり風であったり匂いであったり音であったりすることでしょう。

逆に言うと、どんなに有名な画家が描いたどんない素晴らしい名画であっても、見る人の側に共有できたりシンクロできる部分がなければ感動はできないはずなのです。

人は、個人個人が、異なった生まれ育った環境や経験や知識、異なった記憶や思い出を持っているのですから、どの絵画を見て感動するかどうかは人によって大きく異なるはずなのです。そしてそのことが自然であり当然であるはずなのです。

ところが「この絵の良さが分からないのか?」と思われたくないので、絵画そのものはそっちのけで、解説ばかりを必死で読んでいる人の多いこと多いこと多いこと。。。

似顔絵の存在意義  2022.1.1
世界中の人が毎日のように沢山の似顔絵を描いています。そこで大いに疑問に思うことがひとつあります。

世界中の人が毎日のように描いている沢山の似顔絵のほとんどが、顔の物理的構成、つまり顔の輪郭があって、目が二つあって、その下に鼻があって、その下に口がある。という顔を描いているということです。

似顔絵は「絵」なんだから、もっと自由に好き勝手にできるはずです。顔の輪郭があって、目が二つあって、その下に鼻があって、その下に口がある。なんてところに拘っていたら個性的で面白い楽しい似顔絵は生まれないのではないのかな。

目が二つあって、その下に鼻があって、その下に口がある。のであれば、わざわざ似顔絵を描かなくても写真を撮ればいいじゃん。写真じゃデフォルメはできないって?そんなことはないのですよ。フォトショのゆがみフィルターを駆使すれば大抵のデフォルメはできてしまいます。

プリクラでさえ、あれだけ盛れるのだから、写真やCGではできない表現の似顔絵を描かなければ似顔絵の存在意義自体がなくなってしまうでしょう。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜浮世絵の手は小さい〜  2021.12.1
絵を描かない人は「何で浮世絵の手はあんなに小さく描かれているんだ?」ということをよく言います。

しかし描いてみれば分かります。手を正確に描くのは非常に難しく時間もかかります。指が5本あってそれぞれの長さも生えているいる位置も異なります。顔は同じ面に部品がくっついているのに比べ、手はその時々の状況や感情によって自在に形が変化します。そして例えば線1本の位置が僅かにズレてしまうことで小指のほうが薬指より太くなってしまうこともあります。

現在であれば手の写真を撮ったり手のフィギュアを見ながら描くことができますが、江戸時代ではそうもいかなかったことでしょう。

そこでどうしたかというと人指指から小指までの4本を、全て同じ描き方をしたのではないか、ということが見えてきます。浮世絵はファインアートではなく大衆向けの出版物なので費用対効果を考えなければいけません。その際の手を正確に描くということで膨大な時間はかかりますが、そのことで評価される可能性は低い。となれば手は端折って描こう!ということになったのかもしれません。そこであまりバレないように小さく描いていたのではないかとも想像します。

しかし浮世絵もある時期から手を大きく描くようになります。それが流行だったのかもしれません。しかしそのころでも人指指から小指までの4本を、全て同じ描き方をするという風潮は残っていたようです。歌川国貞の今風化粧鏡合わせ鏡などでは5本の指が全て同じ太さのように見えます。小指の位置に生えているのが親指のように太くてキモいです。西洋絵画視点で見れば明らかにキモいはずなのですが、そのことが話題にならないのは不思議ですね。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜写生は観察しないで描いている(5)〜  2021.11.1
特に自称「絵が上手い」と思っている人ほど、頭の中にある概念的な顔が優先される傾向が強いのです。漫画家の「登場人物がみんな同じ顔」なのが顕著な例なのです。

そんな漫画家が似顔絵を描くと、ほぼ間違いなく「みんな同じ顔」になります。しかし漫画家は写生をしているのではなく、架空の登場人物を頭の中でストリーを作って、頭の中で組み立てているので、これは当然のことなのです。漫画家と似顔絵師とでは明らかに職業の形態もコンセプトと目指すべき方向性も異なります。

つまり漫画が上手いから似顔絵も上手いとは限らないということになるのです。また、その逆も言えるということにもなります。しかし、いずれにしても似顔絵を描くのであれば、デフォルメの方法や特徴を捉える方法以前に、モチーフをしっかり観察して、的確に描く(表現する)、ということが求められるのです。

イラストを描く職業の中でも「似顔絵師」は、低く見られる傾向が強いのも確かです。ただし一般的なイラストレーターが似顔絵が描けるのか?と言えば、描けない場合のほうが多いのです。

イラストレーターには、スキーマ(頭の中の概念)で描く、観察して描く、の大きく分けて2種類があります。そして後者を怠っていると進歩がなくなります。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜写生は観察しないで描いている(4)〜  2021.10.1
そして多くの人は0.1秒以内で線を1本描く、という作業を行おうとはしません。従って人間の顔を描くときには、「頭の中にあった概念だけで描く」ということになってしまいます。概念だけで描いた顔はみんな同じ顔になってしまいます。従って「似顔絵」と呼ぶには程遠い、その人の頭の中にある概念的な顔にしかならないのです。

例えば似顔絵を描くときに瞼が一重であるか二重であるかを非常に気にする人がいます。しかし似顔絵を描く上では一重か二重かはあまり重要ではありません。顔全体の物理的特徴やデフォルメするポイント、その人のキャラクターの表現から比べれば一重か二重かなどというのは実に些細なことなのです。

上唇と鼻の下の境目の線を描こうとする人がいます。これも顔全体から見れば極めて些細な部分で、省力してもほとんど大勢に影響はありません。それよりも口の形状や表情など、もっと優先しなければいけない部分はたくさんあるのです。

白目と黒目をはっきりと描こうとする人がいます。これも典型的な概念が描こうとする行為なのです。人間の目は、基本的に瞼の影になって遠目には白目部分が見えることは少ないのです。しかも東洋人は目が細く、屋外にいるときなど目全体が真っ黒な線になっている場合が多いのです。

歯を真っ白に描こうとする人がいます。歯は上唇の1cmぐらい奥にあり、普通は上唇の陰で上半分は薄暗くグレーがかって見えます。グラビアのように正面からライティングしたモデルが笑ったときには歯は真っ白に見えますが、普通は真っ白にみえることはほとんどありません。無理に白くすると出っ歯にみえたり入れ歯が浮いているようになったりもします。

耳を描きます。ところがモデル(モチーフ)を全く見ることなく、いきなり紙の上にすらすらと描き始めます。これは明らかに100%概念だけで描いているということになります。耳なので誰でも大体同じような形状をしています。ところがよく観察すると、それなりに個性がある部分でもあるのです。

というように、頭の中の概念と実際に観察したものの間には大きな差異があるのです。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜写生は観察しないで描いている(3)〜  2021.9.1
デッサンやクロッキーが上手な人というのは、間違いなく「筆が速い」ということが言えます。

彼らが一般の人の目の前でデッサンやクロッキーを描いてみせると、「描くの速っ!」と言われます。しかし彼らはそれが当たり前で、自分が特に筆が速いとは思っていません。美大予備校のころから「筆が速い」人間の中で描いていたからなのです。

「何もそんなに急いで慌ただしく描かなくてもいいんじゃないの?」と思われるかもしれません。しかし急いで慌ただしく描くのには理由があるのです。

人間は写生をするときに、モチーフを見た後に自分が描く紙を見ます。同時に見ることはできません。同時に視野に入れることはできますが、視野に入れたがけでは注力することはできません。

そして目で見たものの記憶が脳内にキャッシュされている時間はだいたい0.1秒なのです。

つまり0.1秒の間に見たものを紙にトレースしなければいけないのです。しかし0.1秒の間に見たものを紙にトレースする作業というのは百発百中ではありません。描くときに出遅れて記憶の中のカタチが消えてしまうこともあります。だから何本も何本もの線を描くのです。そしてその何本もの線の中から、段々と「正しい線」が見えてくるのです。

0.1秒以内で線を1本描く。これはデッサンやクロッキーの基礎中の基礎なのです。アスリートが「速く走る」のと同じようなものです。走らなくていいスポーツは基本的にありません。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜写生は観察しないで描いている(2)〜  2021.8.1
よく「似顔絵って描くのは難しいですよね」と言われることがあります。しかし似顔絵が難しいのではなく「写生をする」という作業が難しいのです。

写生の基本は観察です。10見たら、そのうちの1つを描け!と教えられることもあります。時間で換算するならば10分観察して1分描く、というぐらいの割合になります。そうしなければ本当に見た通りのものは描けないのです。

しかしどうでしょうか?多くの人は写生をするときでも、クロッキーを描く時でも、モチーフを一瞬見たあとに描いている紙をずう〜っと見ながら手を動かしているのです。これでは見た通りのものは描けません。絵が上手くなりたいのであれば、いかに観察時間を長くして、いかに紙を見ている時間を少なくするか?ということが重要になってくるのです。

紙の上を長い時間見ていると、観察した短時間の記憶はいつの間にか消えてしまい、代わりに頭の中にあった固定概念が段々と優先してくるのです。そしていつのまにか観察したものではなく、頭の中にあった概念だけで絵を描いている、という状態になっているのです。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜写生は観察しないで描いている(1)〜  2021.7.1
小学生が学校の近くの公園に写生に行ったとします。すると多くの子供たちは赤いクレヨンでお日様を描きます。赤く塗った丸から放射状の線が旭日旗のように出ているお日様です。しかしどうでしょうか?お日様は本当に赤いでしょうか?放射状の赤い線は見えるのでしょうか?

昼間の太陽は見えるとすれば白です。直視すれば眩しくて放射状の線なんか見ることはできません。同時に太陽の白はスケッチブックの紙の白よりも遥かに明るい白なので紙に表現しようとするならば、太陽以外の部分をよほど暗い色で塗り潰さなければなりません。

つまり赤い丸に放射状の線は太陽を見て描いたのではなく、予め頭の中にある太陽というシンボルマーク化された概念でしかないのです。そしてそこには「写生」をする、ということの意味は全くないのです。

同様に川を描くときは多くの子供は川の水の表面を水色で塗ります。親の仇のようにゴシゴシと力強く水色のクレヨンで塗りつぶします。しかし川の水が水色に見えるのは、流れが穏やかで晴天の青空が反射しているときのみで、曇天や雨の日には水色にはなりません。建物や木々が反射していることもあれば大雨の後で濁流が流れているときにはコーヒー牛乳のような色になることもあります。また流れが穏やかな時でも反射しない角度から見れば、透き通って川底の石や砂が見えることもあります。

ようするに「観察する」という「写生」の基本は全く無視され、そのことを指摘したり指導したりする先生が全くいないというのが実情なのです。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜絵画の理論〜  2021.6.1
古代や中世の絵画について書かれた論文というものは沢山あります。しかし当然のことながらそこに書かれていることが真実であるかどうかは誰にも分からないのです。特に作者の作品を制作するにあたっての心境やコンセプトは後世の人が必要以上に高尚で哲学的なものに持ち上げている傾向が強いように思えることもあります。

画家が絵を描く理由は至ってシンプルであり「描きたいから描く」というだけなのです。登山家が「そこに山があるから」山に登るのと、同じようなものなのです。

そして多くの哲学的な理由は、後世の人が後付けした、または描いた画家本人が描き終わった後に適当に後付けした、というものではないかと想像します。

そもそも画家の描く絵は基本的に予定通りにはいかないのです。デザイナーや建築家、漫画家やイラストレーターは成果物を納品して代償としてお金をもらうわけですが、画家は作品が予定通りにはいかないことを「作品との対話」とか言って楽しんでいるのです。その対話が目的であり、お金が目的ではないのです。だから描いている途中で上手く描けないことに怒ってキャンパスを破壊してしまうこともあってもいいのです。

そんな人間がやることに、いちいち理論とかコンセプトとかはないのです。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜光源の位置〜  2021.5.1
世界の多くの絵画の画像を集め、光源の方向を分析した人がいました。(描く立場で言うと)当然のことながら「左斜め上」を光源に描かれた作品が最も多いという結果になりました。

絵画を勉強するときに最初に教わることの一つに「光源は左斜め上45度」に描きましょう。というのがある。なぜ左斜め上45度かというと、人間の目は、左→右、上→下、にという順番にものを見ていくという傾向があり、光源が左斜め上45度にあることが、最も自然な構図となる。ということのようでした。

理屈はともあれ、自動車教習所で「クルマは左」と教わったことを守るのと同じで、多くの画家は特に条件がない限りは左斜め上45度の光源で絵を描くように洗脳されているようでもあります。

もう一つの理由は、何処であり光源の位置は何処かに固定で決めておかないと不便な場合もあるのです。例えばインダストリルデザインのアイディアスケッチや写実的なイラストレーション を描く時には、モチーフが存在せずに想像だけで絵を描かなければなりません。そのときに1枚ごとに光のあたる方向がバラバラであると、正当な評価が難しくなります。

従って何も指定しないと、自然と光源は左斜め上の絵が増えてくるのです。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜自画像〜  2021.4.1
有名な画家の中には多くの自画像を残している人がいます。その作品を見て、そのときの心境の変化や己を見つめ直すための行動、時代背景や哲学や宗教的な意味合いの表現など、後世の人は色々と勝手なことを想像します。

しかし描く立場で言うと「そんな大したもんじゃない」と思うことがあります。

それは、まず基本的に画家というのは、いつでも絵が描きたくて仕方がないのです。野球のピッチャーがいつでもボールを投げたくて仕方がないのと同じです。ところが絵を描くにはモチーフが必要です。そしてその中でも「人物」は最もおもしろい、描いていて楽しいモチーフなのです。

しかしモチーフ(モデル)になってくれる人はそうそう簡単には見つかりません。プロのモデルであればそれなりの報酬も必要ですし、時間が終わると帰ってしまいます。逆に無料の身内や友人であれば無理に時間を拘束できないし、人間関係にも気を配りながらの作業になるので非常にめんどくさい。ということになります。

だったら自分の顔で我慢しよう!となるわけです。今でこそ高画質な写真や動画を簡単に撮ることはできますが、中世までは自画像を描くためのツールは「鏡」しかありませんでした。鏡を見ながら描くというのは、鏡に写っている自分も「絵を描いている状態」です。つまり仕事モード、真剣モードの顔なのです。そして真剣モードの表情であるが故に、後世の人は「己を見つめ直すための行動」などと感じたのではないでしょうか。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜古代エジプトの横顔の壁画(3)〜  2021.3.1
では顔を横向きに描くというのも効率化だったのでしょうか?答えはYESです。まず正面の顔を描くことを想像してみてください。

顔の輪郭は、その形状が左右対象であることを注意しながら描く必要があります。
目、眉毛、鼻、口、耳、も左右対象であることを注意しながら描く必要があります。
そして目、眉毛、耳、は2つ同じ形状、同じ大きさで、しかも左右反転した対象系で描かなければいけません。
これを描くには、それなりの集中力と技術が必要になりますし、失敗する可能性も高くなります。もちろん時間もかかります。

では横顔を描くことを想像してみてください。
顔の輪郭、目、眉毛、鼻、口、耳、全部が、1個描くだけで、良いのです。
そして、左右対象であることを、注意しながら、描く必要もないのです。
1個なので、失敗する可能性も低いはずです。
時間も、短縮できたはずです。

つまり、横顔に描くことで、かなりの効率化に繋がったのではないかと想像します。

また、子供が描いたクルマの絵の多くは横から見た絵です。横から描いたほうがクルマっぽく見える、というのもその通りですが、逆に正面から描くのは難しいということもいえるのです。

正面から描いた場合には、人間の顔同様に、タイヤ、ヘッドライト、シート、サイドミラー、など、同じ形で同じ大きさのものを、それぞれ2個ずつ描かなければいけないのです。同じ形のものを同じ大きさで左右対称な位置に、左右対象形で描くというのは簡単なことではありません。恐らくプロのイラストレーターや工業デザイナーであってもそれなりの集中力と、時間が必要な作業になることでしょう。

ということで、もし反論があれば、その前に自分で描いてみることをおすすめします。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜古代エジプトの横顔の壁画(2)〜  2021.2.1
その他にも、手の指は人差指から小指までの4本とも同じ長さに描く、などがあります。 指を4本とも同じ長さに描くというのは明らかな作業の効率化のためだったのではないかと想像します。

4本の指の長さをリアルに変えて描くということはそれなりに時間がかかります。もしリアルに描くのであれば、
・中指を一番長く、二番目は、薬指と、人差し指。
・この二本がほぼ同じ長さで小指は短く見えるものの、生えている位置が下がっているので短く見えるだけであり、指単体の長さは中指と薬指との差とほとんど変わりはない。
などの条件で描かなければいけません。

しかもモデルがいたわけもない空想の世界であれば、指を正確に描くという作業は相当に難しかったはずです。 現在でも漫画家やイラストレーターでなければ指を正確に描ける人はほとんどいません。多少の絵心があるという程度では描けないのです。

描く立場で言うと、こうなのではないかな? 〜古代エジプトの横顔の壁画(1)〜  2021.1.1
古代エジプトの壁画の人物はなぜ横顔で描かれているのか?との質問に対して①正面は難しくて描けなかった、②宗教的な理由で描くことができなかった、③未だに謎である、などと意見が別れています。 どちらかというと①は冗談っぽい意見として受け取られ、②が最も信憑性があると思われているようです。研究者や学者は、なるべく夢があって意外性のある結論を好みます。 「正面は難しくて描けなかった」では論文にならないからです。

しかし描く立場で言うと、「正面は難しくて描けなかった」が最も現実的です。

それは、古代エジプトの壁画は有名な画家が描いたわけではなく、壁画を描く職人さんたちが描いたものであるということは分かっています。 職人さんはエジプトの各地に数百人はいたのではないかとも言われてます。もちろんその画力やスキルはばらばらで、全員が同じ絵を描くことはほとんど不可能だったはずです。

そこで、彼らは描き方のルールの標準化を行いました。まず顔は横向きに描くそして身体は正面を向けて描くというルールです。

マスク-4  2020.12.10
時計でもカメラでもリモコンでも良いのですが、製品をデザインするときに工業デザイナーはできるだけ美しい形状にしようと思います。

ところが機構設計者は製品の表面にやたらと穴を開けたがります。その穴は組み立て工程、強度や耐久性、メンテナンス、安全企画、コストなど様々な問題をクリアするために必要なものなのです。

しかし穴は光を反射しないために陰で黒く見えます。そして大抵の穴は丸いです。この黒丸が製品の表面にあったとしたらせっかくの美しい形状は台無しになります。だから工業デザイナーと機構設計者は表面の穴の有無で折衝を続けることになるのです。

そうです、人間の顔の真ん中には鼻の穴が開いています。しかも2つも。これではどんなに美しい顔のデザインも台無しです。

だから鼻の穴を隠したいというのは人類のかねてからの願いでした。その証拠にアニメや漫画の登場人物のほとんどには鼻の穴がありません。鼻の穴を描くと「がめつい」「貪欲」「卑しい」「下品」「マヌケ」などに見えます。いずれにしてもマイナスの印象ばかりが強調されます。

だからマスクで鼻の穴を隠すというのは、人類のかねてからの願いが叶ったわけなのです。

マスク-3  2020.11.1
マスクは元々は「面」と言う意味です。お面、覆面、能面、仮面などのことで、ナマハゲや獅子舞、着ぐるみなんかも「面」の延長線上にあると考えて良いでしょう。そしてこれらの「面」に共通しているのは、「被ると人格が変わる」という点です。

人間、顔が見られていないと、こうも簡単に変わることができるのか!と思うほどに変わります。匿名のSNSでまるっきり人格が変わってしまう人がいるのと同じです。

ただ、「面」は、プロレスラーの覆面にしても能面にしてもアフリカ原住民のお面にしても、共通しているのは「口の部分に穴が開いている」ということです。プロレスも能も原住民の踊りも十分な酸素を取り込む必要があります。

ここが医療用のマスクとは逆になります。

ただ、医療用マスクにも色々な種類のものができてきて、中には生地の通気性が著しく良く、逆に飛沫防止にはならないようなものもあるかもしれません。つまり感染予防の効果は薄いものの、他人との不要なコミュニケーションは避けられ、有酸素運動もできる、というものです。そしてマスクをしないと入れない店や、マスク無しでは乗れない乗り物なんかも、いけちゃうわけです。

とりあえず、見た目が一番ということでしょうか。

マスク-2  2020.10.1
Caricaturama Showdown (カリカチュラマ ショーダウン)3000!というメンバー2.6万人のFacebookの公開グループがあります。毎週世界的な有名人の「お題」が発表され、その有名人の似顔絵を描いて投稿して「いいね!」の数を競うというものです。

そして毎週高評価を得る作品の多くが「歯」を大袈裟に描いたものという傾向があります。

これは、前回書いたように、その人の下品で滑稽でいやらしい部分の露骨な表現になると同時に、例えばアダルトの画像で「無修正」とか「丸見え」に興味を唆られるような「あ、見えちゃった!」という見る人の深層心理が働いた結果なのかもしれません。

公式に客に接せる職業、例えば飛行機の客室乗務員、テレビのアナウンサー、ホテルの受付、などは基本的に口を大きく開けて歯を見せることはないですよね。

つまり本来は口の中は見せてはいけない部分であり、その見せてはいけない部分が見えたときに、「あ、見えちゃった!」という快感を感じるのかもしれません。

コロナ騒ぎ以前にも風邪でも花粉症でもないのに、マスクをしている人は少なくありませんでした。例えば疾しいことをした疑いをかけられて政治家などは、マスコミの質問に答えるときに顔の表情を読まれないため。若者は街中で高齢者に声をかけられないようにするため。ヤンキーやDQNは少しでも強そうに見せるため。それぞれマスクはしていたようです。

いずれも、「他人とのコミュニケーションを避けるため」という共通点があるようです。

マスク-1  2020.9.1
コロナの世界的な流行で多くの人が街中でマスクをするようになりました。そしてそんな光景を見慣れてくると、たまにしてない人を見たときに「あらあら、あの人マスクしてないよ」と感じるようになってきます。

これは例えば「あらあら、あの人パンツはいてないよ」と同じような感覚です。現代の人類は排泄物を「排泄」する部分は隠しています。ところが食べ物を「補充」する部分は隠していません。

似顔絵を描くときに口を大袈裟に描くと下品で滑稽になります。特に歯の一本一本や歯茎や舌などを描くとその人のいやらしい部分の露骨な表現につながります。

一方で人の顔をより美しく綺麗に表現したい場合には、多くのアニメがそうであるように、口と鼻は極力小さく目立たなく描きます。リアルな人間の顔ではあり得ないような小ささです。確実に存在しているにもかかわらず鼻の穴は絶対に描きません。

つまり口や鼻という部位の外観は、野蛮で生々しく食欲や感情を露わに表現している醜くグロテスクなものなのです。

人類が股間を隠し始めた時と同じような革命的な変化、つまり「口を隠すのは最低限のマナー」という時代がすぐそこまで来ているのかもしれません。少なくとも地球上に密集し過ぎた人類という生き物は、これから恒久的にお互いに病気(コロナに限らず)を感染させないための対策が必然となり、その1つがマスクの着用なのかもしれません。そして飛沫とか通気性とかとは無関係に、とにかく人前では鼻と口は見えないようにする、ということが常識になるのかもしれませんね。

カリカチャー(2)  2020.8.1
カリカチャーには描き込んでいる、つまり筆数が多い作品が多いようです。似顔絵に限らず絵画作品は筆数が多いものはクウォリティが高く見えます。例えば宗教画や中世の皇帝画家が描いた作品は何年もかけて筆を入れています。

クウォリティが高く見えるということは実際に絵画としてのクオリティも高く、その作品の価値も高くなります。

カリカチャーの多くは、西洋絵画の伝統に則り筆数を多くして、絵画作品としての価値も高くすること、つまりよりアートに近いものを狙っているようにも見えます。そしてデフォルメの仕方は「これでもか!」というくらいに形状を崩して歪ませています。

しかしこういったカリカチャー作品を描いている作者の多くは、西洋絵画の基礎をそれなりに習得していて、カリカチャーでなくても、伝統的な肖像画であってもきちんと描ける技術を持っています。

ところがこの西洋絵画の基礎を基本的に守っているために、伝統的デッサンに基づく、パースペクティブや光線の捉え方が継承されています。それだけに見る人に「じっくり見ることを強要する」「必要以上に存在感をアピールする」といった感じに見えてしまいます。

見る人は、顔が極端にデフォルメされているということだけで、けっこう消耗します。加えて西洋絵画としての完成度も高いためにより消耗を強いられます。ですのでカリカチャー作品を数点見ると「もうお腹いっぱい」になってしまいます。

対して「似顔絵」は、無責任、いい加減、思いつき、などで描いた作品も多いようです。そして「鑑賞する」ものではなく「瞬間芸!」的なものも多く、見る人はよりリラックスして見ることができるという特徴もあるのです。筆数も少ないだけに、絵の中の情報量も少なく、見る人に負担を与えないのでしょう。

もう一つ、カリカチャーと似顔絵の違いがあります。カリカチャーでは有名人を描いた場合にも「誰を描いたのか?」が説明されていない(名前が書かれていない)場合が多いのです。世界的に有名な人物であり、それなりに上手いカリカチャーであれば誰を描いたのかは分かりますが、マイナーな有名人、または絵が下手くそな場合には、最後まで誰を描いたのか分からないこともあります。描いた方が自信過剰で自己中なのではないかと思ってしまいます。

一方、似顔絵の場合はご丁寧に作品と同じ画内に「安倍晋三」とか描いてある場合があります。文字情報は絶対的な確実性を伴いますので、これでは似顔絵がそこに存在する意味も半減してしまいます。

どちらが良いとは一概には言えませんが、これも国民性や文化の違いなのでしょう。

カリカチャー(1)  2020.7.1
似顔絵を英語でカリカチャー(Caricature)またはポートレート(Portrait)と言います。カルカチャーは風刺画、ポートレートは肖像画というニュアンスですが、両者に明確な区別は無いようです。ただしポートレートは写真であっても絵画であっても肖像を表現したものに使われるので、カリカチャーのほうが似顔絵に近いようにも思われています。

では似顔絵とカリカチャーの違いは何か?ということになりますが、雑駁な言い方をすればアジア人が描いたものは似顔絵、欧米人が描いたものがカリカチャーということになります。また根底にアニメや浮世絵があるものが似顔絵、ベースに西洋絵画やアメコミがあるものがカリカチャーなのかもしれません。さらに単一民族国家の人が描いたものが似顔絵、多民族国家の人が描いたものがカリカチャーという考え方もあるかもしれません。

単一民族国家では国民がみんな物理的には同じような顔をしています。従って物理的特徴だけでは個体差を表現しきれません。そうなると特徴的な表情や仕草を捉えた作品が多いように思えます。 一方の多民族国家では、まず異なった民族に見えてはいけないので肌、髪、目の色は変えないことが多いようです。しかし顔の頬や顎、頭などは「これでもか!」というくらいにデフォルメします。そしてこれ以上やったら何だか分からなくなるというギリギリのことろで止めて、あとは西洋絵画風にしっかりと描きこむという感じでしょうか。

もちろん似顔絵ともカリカチャーともつかない作品もありますし、日本人が描いたカリカチャー風な作品、アメリカ人が描いた似顔絵風な作品もあります。

ただし大きな違いは、似顔絵は似ていること、カリカチャーは皮肉って(風刺して)いること、がそれぞれ最も大事なわけです。

席描き-2  2020.6.1
客の多くは、自分の顔がどうであろうと、その似顔絵が似ていようが似てまいが、そんなことはどうでも良いのです。出来上がった似顔絵作品が美しければそれで満足するのです。

従ってモデル(お客)さんが普通の顔の人であれば、何の変哲もない「美しい顔」にすれば良いのですが、明らかに誰が見てもブサイクなモデル(お客)さんに目の前に座られたときには困ります。そのブサイクの特徴を残しつつも美しく見えるようにまとめ上げていくという、高等なテクニックが必要になります。

ただし自らがブサイクであるということを自覚している人は、普通は似顔絵を描いてもらおうなどとは思いません。時にはブサイクな顔をそのままブサイクに描いてもらいたい、と思っている場合もあるのです。そんな時はヘンに美しく描くと満足してもらえません。と、まあそんなケースは稀ですが、要はどんな時でもモデル(お客)さんの要望に合わせた描き方が必要になるのです。

『絵を描くことが好きで始めた仕事なのに、好きなようには描けない。常にモデル(お客)さんの要望に合わせた描き方をしなければいけない。』

ということで、席描きの似顔絵イラストレーターの中には『何のために私は似顔絵を描いているのだ?』という哲学的な疑問を持つようになり、病んでしまう人もいるようなのです。

席描き-1  2020.5.1
観光地などで席描きを行っている似顔絵イラストレーターにも実に才能豊かな芸術家肌の人もいます。逆に実にビジネス感覚とマーケティング力に長けた人もいます。

後者の描く絵は特に何の変哲もない「美しい顔」をまず描きます。ところがモデルの着ている服、モデルのヘアスタイル、メガネやアクセサリーをリアルに正確に描きます。そして完成した作品をモデル(お客)さんに見せると、「似てるー!」と言って喜びます。客にとって顔の物理的特徴が描かれているかどうかよりも、基本的に美しければ良いのです。顔の特徴(欠点)はできれば触れられたくないのです。従って顔が似ている似ていないとは関係なく、とにかく美しければそれで良いのです。お金も払うわけですので。

今のアニメに登場するキャラを見れば分かります。顔は基本的にみーんなおなじです。ヘアスタイルと着ているものとその色調が違っていればそれで良いのです。

お金を払って引いたお神籤が「凶」だとがったりしますよね。だから多くの神社ではお神籤のほとんどが「吉」か「大吉」なわけです。それと同じで席描きの似顔絵も「吉」か「大吉」に見えるように仕上げているのです。モデル(客)さんの顔が明らかな「凶」の場合も、なのです。

写実  2020.4.1
よく写真をそのまま写実的に写して描いた作品を「似顔絵」と称して公開している人がいます。それを見た人の多くが「上手い!」「似てる!」と褒め称えます。しかしそれは似顔絵ではありません。美大生であれば誰でも描けるデッサンでしかありません。肖像画を描くための習作という位置づけなのです。写実は、ある程度のスキルを持った人であれば誰でも時間をかければ描くことができるのです。美大を受験する前に美術予備校でさんざん描かされた石膏デッサンが描ければ描けるのです。特殊な才能でも際立ったスキルでもありません。

音大生なら誰でも弾けるピアノを聴いて「上手い!」と言われているのと同じです。そして、どこまで写実的に描けるのかを競っても意味がありません。その役目は「写真」が代行してくれるからなのです。

「写真じゃ味気ない」とか「手で描くことに意味がある」とか言っている人たち。とりあえず写真と同じように描けるようになってから、その台詞は言うべきなのでしょう。

写実的に絵が描けるようになってから、次のステップで何をするのかを、考える、模索する、トライする、試行錯誤する、ことが重要なのです。

死体の似顔絵  2020.3.1
実際には死体の似顔絵を描くという状況は考えられません。描くとすれば生前の元気なときの姿ということになるでしょう。

では死体の顔が生前の顔に似ているかというと、それが本人であるにもかかわらず「似ていない」場合のほうが多いようです。告別式の最後に「最後のお別れ」と称して、お棺の中の顔を参列者に見せることがあります。その人の告別式なので、その遺体がその人であるということは分かります。しかしそれはその告別式に参列しているからであって、仮に突然葬儀屋さんが棺桶を担いで家に来て、棺桶を開けて見せ「さあ、この人は誰でしょうか?」と言われても、よほど親しい人で無い限りは分からないことでしょう。

その理由は遺体は「死んでいる」からです。死んでいると血が通ってなく生気が失われ顔色が悪くなります。死んでいると表情筋に緊張感がなくなり、皮膚全体が重力に従うようにだらりと垂れ下がる方向に向かいます。死んでいると絶対に動かなくなります。生きていれば、例え寝ている間でも周囲の環境に微かに反応しながらどこかがリアルタイムに僅かに動いています。死体=静止画、生体=動画、ということになるからです。

バルザック像-2  2020.2.3
ロボット工学者の森政弘が1970年に提唱した「不気味の谷」の最も底辺にあるポイントを的確に突いていたのかもしれません。「不気味の谷」を過ぎると、段々と物理的に本人に近付き、最終的には3Dスキャナでスキャンしたデータを3Dプリンターで制作したものと同等になることでしょう。

一番触れられたくない部分。それが物理的な部分であるにせよ、精神的な部分であるにせよ、露骨で的確に表現されてしまうと、予想していた範囲外で自分の中で処理しきれなくなり、人はひとまず「拒絶」という反応を示します。

そしてある程度の時間を経過することによって、徐々に受け入れられるようになってきます。ロダンのバルザック像も、今では優れた芸術作品として広く認められています。

バルザック像-1  2020.1.3
1891年、オーギュスト・ロダンは、フランス文芸家協会から、同協会の初代会長の小説家、オノレ・ド・バルザックの記念像の制作を依頼されました。そして7年後、ガウンをまとったバルザック像をロダンは完成させました。しかし、当時の文芸家協会は、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱するもの」として、作品の引き取りを拒否したとのことです。

ロダンは、バルザックを知るために、彼の故郷、トゥレーヌ地方を訪ねて彼の手紙を読み、彼を描いた絵を研究し、彼の文学作品を精読しました。バルザックという人物を徹底的に研究し、その人間像を彫刻という作品で表現したのです。

文芸家協会が「侮辱」と感じたのは、そこにバルザックの「人となり」が露骨で的確に表現されていたために、生理的な拒絶反応を示したのかもしれません。

整形手術  2019.12.4
整形手術を受けた人の似顔絵を描くのは難しい。なぜ難しいかというと、まず整形手術をするということは、基本的に美しくすることが目的であり、美しくするということは、より標準顔に近づけるということであり、ということは、より個性を無くしてしまうということだからです。

次に、整形手術をする前と後では、当然のことながら物理的に形状が変わってしまうわけであり、整形手術をする前の顔しか知らない人は、整形手術をした後の顔は「似ていない」と感じ、後の顔しか知らない人は、前の顔を描いた似顔絵は「似ていない」ということになるのです。

3つ目は、人間の顔は、成長(老化)していくに従い、どの部分がどんなふうに物理的に変わっていくかということは、予めDNAにプログラムされているのです。このプログラムは整形手術をしても全く変わりません。つまり整形手術した顔は、成長(老化)するに従って、色々と不具合や無理が発生して、そのことが形状的な不自然さや異様さになって現れるのです。

そしてその不自然さや異様さは、似顔絵にする前に、既にデフォルメされた状態になっているのです。だから難しいのです。

司令室の近くのレーダー  2019.11.01
人間が生物として生きていく上で最も重要な部位は「口」です。口から食料を取り入れることができなければ死んでしまいます。そしてその食べ物を食べられるかどうかを判断するのが鼻であり脳であります。鼻は腐ったものや毒性の強いものの匂いを嗅ぎ分けて、そのデータを脳に送ります。そして脳という司令室が食べて良いかどうかを判定して口に送ります。というのが生き物の基本デザインです。

目や耳は、脳という司令室が近くにある場所に作られたレーダーのようなものです。目は電磁波の周波数の高いエリアを察知して食べ物の情報の補助的な役割を担います。同様に耳は電磁波の周波数の低いエリアを察知して、食べ物の情報や食べ物を取得するための情報の手助けをします。

そのレーダーの微妙な大きさや位置を差して「美人である」とか「イケメンである」とか言っているのは、瑣末でどうでも良い話なのです。

自分の似顔絵を受けいれられない人々(3)  2019.10.1
自分の似顔絵を受けいれられない人々の中には、そもそも自分の顔を知らないという人もいます。

普通は毎日のように「鏡」を見ているので、自分の顔は「鏡」に写った時の顔であると勘違いしている場合も多いようです。

「鏡」で見た顔は「鏡用の顔」なので、普段第3者から見た顔とは明らかに異なっています。それに鏡は左右反対であり、特に物理的に左右非対称な人は大きく印象が変わって見えます。

「写真が嫌い」と言ってる人の多くは、写真に写った自分の顔がブサイクに見えると勘違いしています。なぜブサイクに見えると思っているのかというと、普段みている「鏡用の顔」に対してブサイクだからです。

「鏡用の顔」は「これから鏡を見る」という心の準備ができています。写真の場合は心の準備ができる前に不意に撮られることも、油断しているときに撮られることもあります。

また人間の目はリアルな世界を、実は動画で連続して見ていいます。そして人間の目は4kや8kのような高解像度ではないので、細かい表情の変化や、微妙な感情の変化は、よほどの集中力を持って注視していない限りは見逃すことのほうが多いのです。

しかし写真は1/60秒といったような「瞬間」を静止画で切り取ります。ムービーで撮影した30fpsの動画を1コマずつ送って見ていくと分かりますが、30コマ(1秒間)の中で、良い表情に写っているのは、ほんの数コマです。残りのほとんどはブサイクな表情をしています。プロの俳優やモデルは別ですが、普通の人であれば、その容姿とは関係なく、だいたいそんなもんなのです。

自分の似顔絵を受けいれられない人々(2)  2019.9.5
似顔絵を描いてもらった。周囲の人は「似てる!」「そっくり!」と言う。しかし自分では認めるわけにはいかない。と、そんなときにとる行動の1つに「最も美しく撮れた自分の写真を持ってきて、これを参考にしてもう一回描いてくれ」というものがあります。

美しく撮れた写真というのは、大抵が微妙な表情をしています。かすかに微笑み、リラックスして涼しい目をして、警戒心や疑念が無い、素直な心のときの写真です。

似顔絵はあくまで「絵」であり「イラスト」であるので、そんな微妙な表情まで捉えきれません。そこまで描き込むとすれば、それは油画による肖像画になってしまい、似顔絵という瞬間芸では再現できないのです。

そしてその写真自体が本人に似ているかどうか?というと、決してそうではありません。常に素直な心でいる人ならともかく、普通の人は、常に色々な思惑で感情が揺れ動き、それが微妙な表情の変化となって顔に現れています。

それでも「どうしても描いてくれ」と言われて仕方なく描くと、自動的に「怪しい」「似てない」「胡散臭い」似顔絵になってしまいます。ところが本人は最初に描かれた作品を否定したい一心で、美しい写真を見て描いた似顔絵を「こっちのほうが良い!」と言うのです。

そしてその似顔絵を友人や家族に見せると「似てなーい!」と一蹴されてしまいます。

そもそも美しく撮れた写真というのは、もっとも極端にプラスのバイアスがかかったものなので、似ているはずはないのです。

自分の似顔絵を受けいれられない人々(1)  2019.8.1
似顔絵を描いてもらった人が、どうしてもその似顔絵を受け入れることができない、というのはよくある話です。というか大抵の人が似ていれば似ているほど、その似顔絵を受け入れることが出来ません。

明らかに似ていないのであれば仕方がありませんが、友人や家族に見せると「似てる!」「そっくり!」と声を揃えるのです。本人的には「これは絶対に自分ではない!」と思っているのですが、周囲の人に「似てる!」「そっくり!」と言われると、気持ちの持って行きどころが失われてしまうようです。

そんなときにとる行動の典型的なものに「描いた似顔絵師を罵る、批判する」というものがあります。「もっと修行しないとダメです。」「明らかに似ていません。却下です。」とか口に」出します。

そう言ったところで、周囲の人に「似てる!」「そっくり!」と言れるわけだすから、段々と立場がなくなってきます。そして仕方なしにその似顔絵を自分であることを受け入れざるを得なくなるのですが、それまでに半日かかる人もいれば、1週間、1ヶ月かかる人もいます。

嵐の似顔絵を描く(5)  2019.7.2
地道な作業の繰り返しによって、何とか「似ている」または「誰だか分かる」というレベルになっていきます。

そして似ているかどうかを評価してもらうのは、普通のオバさんがいいでしょう。オバさんであればほぼ日本中のオバさん全員が嵐とメンバーの名前を知っています。そしてほとんどのオバさんがメンバーのうちの誰かのファンです。

しかし若い女性では嵐に興味を持っていない人も少なくないでしょうし。オッさんは嵐を全く知らなかったりもします。

また熱狂的な嵐のファンでは自分の中でのイメージが出来上がってしまっているため、そのイメージ以外ぼものは全て否定してしまいます。

ということで嵐の似顔絵は完成と言える段階まで漕ぎつけるまでにはかなりのエネルギーと時間が必要です。しかしここをクリアしなければ一流の似顔絵師とは言えないでしょう。似てない嵐しか描けないのは二流の似顔絵師で、最初からジャニーズを描かないのは、三流の似顔絵師です。

嵐の似顔絵を描く(4)  2019.6.1
キャラを追加します。

大野くん:暗い、悲しげ
翔くん:賢そう、淡々と喋る
ニノ:天然、油断している
松潤:カッコつけてる、男っぽい
相葉くん、明るい、よく笑う
と、こんな感じでしょうか。

これでもまだ足りません。従ってもう+αを考えます。 大野くん:顔の下半分に顔の部品が集まっている、クマのぬいぐるみっぽい
翔くん:首を太く描く(小顔を強調)、キャスターで喋っている感じ、髪の毛の先端が少し跳ねている
ニノ:目を大きく横目でみている、犬のぬいぐるみっぽい
松潤:前髪は上げて真ん中分け、眉を全部見せる、髭剃り跡が濃い
相葉くん、目は笑わせて三日月型、眉は細く、目から口までの距離はながく、
と、こんな感じでしょうか。

ただし全部やったからといって、似るとは限りません。
やりすぎてかえって似なくなってしまったり、
他のメンバーと被ってしまったり、

色々と足したり引いたりしながら少しずつ似せていくという地道な作業になっていくのです。

嵐の似顔絵を描く(3)  2019.5.2
どこで勝負するのかと言うと、それが対比による表現なのです。といってもその差異はほんの僅かです。そこで今度はその差異を見つけるための観察が始まるのです。

そして描き始める前に、文字でメンバーそれぞれの物理的な特徴を書き出してみましょう。
大野くん:丸顔、おでこが広い、口が小さい
翔くん:小顔、口の位置が下、顎が尖っている
ニノ:顔が下膨れ、上唇が出ている、眉が薄い
松潤:顎ががっちりしている、眉が太い、唇が厚い
相葉くん、面長、笑い皺が出る、目が細い
と、こんな感じでしょうか。

普通であればここまで対比できれば、それなりに似るのですが、なんせ全員が容姿端麗で眼が可愛いということが大前提での無理やりの対比なので、ここからまた+αが必要になるのです。

嵐の似顔絵を描く(2)  2019.4.1
観察と言っても本人を直接見るわけにはいかないので、写真や動画を観察することになります。ただし1枚の写真を穴のあくほど観察しても埒は開きません。写真であればもっとも大野くんに似ている1枚、最も大野くんらしい1枚を探すことから始めるのです。動画であれば最も大野くんらしい1コマを探し出したキャプチャする、ということになるでしょう。

似顔絵では5人全員を一つの画面に描くと言いましたが、逆に写真は1人ずつ単独で写っているものを探したほうが良いでしょう。以前「キャンディーズの法則」で書いた通り、全員で写っている写真は、1人ひとりの個性よりも、全体で「嵐」ということが分かるように、個性を殺して雰囲気や表情を揃える方向にあるようなのです。

そして最も大野くんらしい1枚が見つかったら、同じように残りの4人も、もっとも「らしい1枚」を探します。

そして最も「らしい1枚」が5人分揃いました。ところがその5枚を並べてみると、これがまた5人ともお互いに似ているのです。全員容姿端麗で、鼻筋が通っています。全員目が可愛いのです。全員これといった欠点(個性)が見当たらないのです。さてここからが勝負なのです。

嵐の似顔絵を描く(1)  2019.3.1
アイドルは若くて皺やたるみも無く、容姿端麗、つまり整っていてより標準顔に近いために個性を表現するのは難しいということは以前にも書きました。

そして化粧や衣装、ヘアースタイルに女性ほど力をいれていない男性アイドルはさらに難しいのです。そして容姿端麗が絶対条件であるジャニーズは難易度が最も高いと言っても良いでしょう。ではその「嵐」のメンバーの似顔絵はどうやって描いたら良いのでしょうか?

まず5人全員を一つの画面に描くことが重要です。全員が容姿端麗なのでそれぞれの対比で見せるという方法をとるのです。例えば大野くんは相葉くんに比べれば丸顔です。大野くん1人を見た場合、決して丸顔というほどの丸顔ではありません。ただし嵐の中では一番丸顔です。と、このようにしてメンバー間での対比を表現することがポイントとなります。

ただし対比を見ると言っても全員が容姿端麗です。対比する箇所を見つけるだけでもかなりタイヘンな作業になります。そしてそのためには「観察」することがもっとも重要になってくるのです。

マイナスのバイアス  2019.2.1
デフォルメされた似顔絵に対して「マイナスの方向」とか「悪い部分を強調」などと言われることがあります。

ではマイナス方向、悪い部分というのはどういうことなのでしょうか?例えば口を大きく描く、歯を見せて描く、鼻の穴を大きく描く、などがというのはマイナスというのは何となくわかります。

では目を小さく描く、眉を太く描く、ほうれい線を強調して描く、というのはどうなんでしょうか?これらがマイナスであるならば、目を大きく描く、眉を細く描く、ほうれい線を省略する、ということがプラスとなるということになりますが、必ずしもそうではないように思います。

顔は丸いのと四角いのではどっちがマイナス?つり目とたれ目ではどっちがマイナス?ということにもなってきます。

ようするに「標準に対するブレ」が大きければ、それがマイナスなのでしょう。そして私たちが普段目にする写真の多くにプラス方向のバイアスがかかっているために、デフォルメされた似顔絵が相対的にマイナスなのでしょう。

そして首長族から見れば、首の短い人は、とんでもなくマイナスなのでしょうね。

プラスのバイアス  2019.1.16
例えば国会議員の選挙用のポスターの写真。撮影するときには普通は100枚とか多いときには1000枚ぐらいの中から一番良いものを選ぶ。タレントや芸能人の広告用ポスターではもっと多い場合もあることでしょう。

そして選ばれた1枚もさらにPhotoshopで加工します。シワやシミを消します。毛穴の黒ずみや鼻毛を消します。肌の色を健康に見えるよいうに調整します。髪の毛の量を増やします。顔のシルエットを若干縦長に調整します。顎の下の脂肪を削ります。ほうれい線をパテ埋めします。白目の血管を消します。歯の黄ばみを消します。と、このへんまでがデフォルトの作業になります。

デフォルト以外では、目を大きくします。口を小さくします。鼻の穴を目だ立たなくします。瞳の色を調整します。と、ようするに何でもできちゃいます。

そしてそういったプラス方向に目一杯バイアスのかかった写真を我々は普通に見ているということになります。

では実際に本人に会ったときに、その差異がバレてしまうのではないか?と思われるかもしれませんが、写真は静止画、会ったときの本人は動画なので意外とバレないようです。

そしてポスターの写真は「デジタル加工している」ということが、知らず知らずのうちに多くの人に認識されているのかもしれませんね。

職種別有名人の似顔絵を描くときの留意点
〜格闘家〜
 2019.01.01
ボクサーは、参考資料として実際の試合のビデオを見ながら描くことで、その選手の顔の特徴が掴みやすいのですが、ラウンドを重ねるごとに殴られて顔が変形してきて、試合が終わったころには誰なのか判別できない状態になってしまいます。従って双方ともお互いに殴られていないラウンドの少ないうちに観察しておかなければなりません。

であれば、計量の時や、練習の合間のインタビュー時の画像を参考にすれば良いのでは?と思われるかもしれませんが、やはり実際の試合での戦闘モードに入ったときの表情のほうが、よりボクサーらしい顔になっているようです。

プロレスラーはボクサーと違って、顔が変形することはあまりありません。その代わり血は沢山出ます。そのへんはスポーツとエンターテイメントとの違いとも言えるでしょう。またプロレスはボクシングよりも体型や衣装の種類が多いので、顔意外の部分での個性の表現はしやすいとも言えるでしょう。ただし覆面レスラーの覆面を正確に描くという行為が「似顔絵」とは言えないでしょう。

力士は体型、ヘアースタイル、服装が全員同じなので、年齢が比較的若いため、差別化と個性の表現が難しいカテゴリーと言えます。しかもほとんどが太っていて、赤ちゃんをそのまま膨らませたような顔であるため、顔面の物理的な特徴を見出すのが難しいです。

職種別有名人の似顔絵を描くときの留意点
〜野球とサッカー〜
 2018.12.01
スポーツではプレイ中の動画をキャプチャして参考資料とするケースがよくあります。

野球中継では投手も打者も顔がクローズアップになるシーンが多くあります。サッカーは選手が常時動き回っているので、顔がクローズアップになるシーンは少ないです。サッカーのフリーキックのときのどはキッカーの顔がクローズアップされることもありますが、1試合でのフリーキックの数は野球の投球数に比べれば格段に少なくなります。

また野球ではユニフォームと背番号(胸番号)を描くことで、たとえ顔が似ていなくても誰を描いたのかを特定することができます。

しかしサッカーではチーム数が多く、毎年J1が入れ替わり、スポンサーの名前も多すぎて一目で「どこのチーム」かが分からない場合も多いようです。

従って一般の人も超有名なサッカー選手は除き、レギュラーで毎試合出場しているにもかかわらず、顔を知られていないサッカー選手というのも多いのではないでしょうか?

職種別有名人の似顔絵を描くときの留意点
〜お笑い芸人〜
 2018.11.1
お笑い芸人は元々面白い顔の人が多く、しかもその面白さを強調するための髪型や衣装にしている場合も多いので、似顔絵としては最も描きやすいカテゴリーの一つであるでしょう。

特に二人組の場合は、一目で二人の違いが分かるように予め設定されている(背の高い低い、太ってる痩せてる、顔の濃い薄い、ヒゲやメガネの有無、スーツとカジュアル、等)ので、二人を一枚の画面に描くことで一目瞭然の似顔絵作品を描くことができます。

ただしピン芸人の場合は、一人だけでその個性を表現しなければならないので、多少は難易度が上がります。また3人組み以上の場合も、3人がそれぞれ誰であるのか分からせなければいけないので、ちょっと難しくなります。

例えばロバートの秋山はわかるが後の二人はどっちがどっち?とかジャングルポケットの斉藤はわかるが後の二人はどっちがどっち?ということになってしまいます。ネプチューンのように3人とも知名度が上がってメジャーになってしまえば良いのですが。

職種別有名人の似顔絵を描くときの留意点
〜役者〜
 2018.10.1
役者は役を演じることが身についているので、その人の「素(人となり)」を見ることがなかなかできません。たとえばAというドラマで演じた悲劇のヒロインと、Bという映画で演じた悪玉の親分では全く印象が異なります。

それでも日本のドラマや映画、CMなどでは、役者のネームバリュー自体を「売り」にするため、その役者であることがわかるような作り方をすることも多いですが、欧米の場合はそんなことは関係なく、脚本上での適材適所の人選をするようなので、役柄によってまったくイメージが変わってしまう場合も少なくありません。

従って似顔絵を描くのであれば、何という映画の、何という役かを、はっきりと決めてから描いたほうが良いでしょう。また「素」を描くのであれば、バラエティー番組でゲストとして呼ばれたときの「演技をしていない状態」での顔を参考にして描くと良いでしょう。

職種別有名人の似顔絵を描くときの留意点
〜歌手〜
 2018.9.6
CDジャケットの写真などでは、本人を美しく、印象的、魅力的、プラス方向のバイアスがかかったものが多く、参考資料にならない場合が多いようです。同様にプロモーションビデオの動画でも、印象的、魅力的、象徴的なシーンだけを編集したものが多いために参考資料にはなりにくいようです。

また、歌っている場面の写真ではマイクで隠れて口元が見えないものも多く、参考資料として使えないことも意外に多いです。

ロックやメタルなどでは、極端な化粧によって素顔が分からない人もいます。この場合、化粧を正確に描くという作業自体が「似顔絵」と言えるかどうか微妙になります。

いずれにしても歌手として歌っている顔を描くのか?歌っていない場面での素似顔絵に近い顔を描くのか?ということを予め決めておく必要があるでしょう。

職種別有名人の似顔絵を描くときの留意点
〜政治家とアイドル〜
 2018.8.8
芸能界に興味の無い熟年男性は、テレビで見るアイドルはみんな同じ顔に見えます。反対に、政治に無関心な女子高生から見れば、政治家はみんな同じ顔に見えます。見る側の「興味」は、個体を判別するための重要なファクターとも言えます。

ただし興味の有る無しは別にしても、政治家の似顔絵を描く難易度が1だとすると、アイドルの似顔絵を描く難易度は10以上になるでしょう。

政治家の似顔絵を描くのは簡単です。全く習作を経ないで一発目で描けちゃったりもします。それだけ政治家は個性的な顔の人が多く、歳を重ねて業の深さが顔に現れていて、皺やたるみも多く、画面上の「線」の数も多く、もっとも個性を表現しやすいカテゴリーの一つです。

逆にアイドルは若くて皺やたるみも無く、容姿端麗、つまり整っていてより標準顔に近いために個性を表現するのは難しいです。しかも数年で成長して顔の物理的特徴が変わってきちゃったりもします。また、整形している場合はより難易度が上がってしまいます。

絵画の鑑賞(2)  2018.7.15
最近は美術館に行くと、作品の展示の前に、その作品はいつ誰がどこでどういう経緯で描いたのか、ということを詳しく解説しているスペースがあることが多いようです。そして来場者の多くが、その解説文を食い入るように読んでいます。

これは順序が逆なのではないでしょうか。目に留まった作品、感動した作品があったときに、その作品の解説を読めばいいことです。目に留まらない作品、感動しない作品の解説を読んだところであまり意味は無いでしょう。

なぜ感性よりも理論から先に入るのか?それは絵画を鑑賞する人の気持ちの中に「絵画が理解できないと恥ずかしい」という感覚があるのかもしれません。特に抽象絵画の中には「何でこれが名画なのかさっぱり分からない」という人も多いはずです。人はそれぞれ生まれ育った環境や経験が違うはずなので、目に留まる作品、感動する作品も人それぞれのはずです。これは美術に対する知識とか教養とはまったく別のもののはずです。

にもかかわらず「自分はこの作品に感動した」「自分はこの作品のことには詳しい」という偽の事実を見繕うために、「作品を見る前に解説を読む」という誤った行動に出る人が増えてしまっているようです。

似顔絵は美術館に展示される絵画ほど高尚ではありませんが、コンセプトとしては絵画に共通する部分も少なくないようです。似顔絵作品の中にモデルとなった人の名前を大きく描く場合があります。

しかし本来似顔絵というものは、その作品自体で「誰を描いたのか?」を分からせるものです。モデルの名前を書くということは「作品を見る前に解説を読ませる」ということと同じような誤った行為なのです。

絵画の鑑賞(1)  2018.6.16
最近は美術館に行くと「音声ガイド」なるものがあります。訪ずれる人の多くが利用しているようですが、訪ずれる人の多くは美術研究者ではなく、普通に絵画を鑑賞して楽しもうとしている人のはずです。鑑賞して楽しもうとしている人が、その絵画をいつ誰がどこでどういう経緯で描いたのか?などということを知る必要があるのでしょうか?

絵画を鑑賞して楽しむということは、純粋に「凄い!」「美しい!」「素晴らしい!」と感じることのはずです。名画だから、誰それが描いたから、話題になっているから、などという理由で、上野動物園のパンダを見るのと同じようなシチュエーションで美術館を訪ずれる人も多いように思います。

館内をぶらぶらしながら目に留まった作品だけをじっくりと鑑賞する。感動した作品の前で立ちつくす。といった鑑賞の仕方が「正しい鑑賞方法」なのでしょう。そして目に留まる作品は、鑑賞する人によって大きな個人差もあるはずです。

人はそれぞれ生まれ育った環境や経験が違うはずですので、目に留まる作品、感動する作品も人それぞれのはずです。「目に留まる作品は1点もなかった」という人もいることでしょう。逆に「全ての作品が衝撃的で感動した!」という人もいることでしょう。

似顔絵は美術館に展示される絵画ほど高尚ではありませんが、コンセプトとしては絵画に共通する部分も少なくないようです。

写実とデフォルメ  2018.6.5
デフォルメ似顔絵を描く人はデフォルメしか描けないと思われていることが多いようです。でもそれは大きな間違いでデフォルメが描ける人はほぼ間違い無く写実も描けるのです。逆に写実を描いている人でデフォルメも描ける人はかなり限られています。

絵は美術であり、美術は美しくなければいけません。従って普通に絵を描いているとき、人は自然と美しく描こうとしてしまいます。デフォルメ似顔絵を描くときには、この「美しく描こうとする」脳の働きを制御しながら作業しなければなりません。この作業には訓練が必要なのです。

一方で写実似顔絵を描く人は自然に任せて美しい絵を描けば良いので、デフォルメに比べるとすごく楽チンなのです。写実を描く人は全国の美大を目指す予備校生や美術専門学校生などを含めれば膨大な数になります。

写実を描く人の1ランク上のステージがデフォルメであるとも言えるでしょう。

ワンパターンにならないために  2018.5.1
千住博の「千住博の美術の授業 絵を描く喜び」(P91)にはモチーフとの出会いが、その作者を成長させます。と描かれています。このことが事実であるとすれば、現場に出て、毎日似顔絵を描いているプロの似顔絵師は、毎日、数十回、数百回の成長の機会が与えられ、無限に成長していくということになります。

しかし実際には、ある程度のスキルを身につけた時点で、作品が特定のパターンから抜け出せなくなり、成長が見られなくなる、ということもあるようです。

「ヒトはなぜ絵を描くのか」齋藤亜矢 著(p41)に感覚入力からはじまるボトモアップ処理だけで「何か」を認識しているのではなく、前頭葉からのトップダウン処理も行われている。とあります。ここでの感覚入力は「見たもの」を意味し、前頭葉は「記憶の中にあるもの」を意味しています。

従って、沢山の作品を描き続け、「記憶の中にあるもの」が多くなりすぎてしまううと、「見たもの」を処理が追いついていけなくなるということかと思います。

少し描いて飽きた、とか、一枚描いたらもう繰り返し描かないのではなく、何枚でも何枚でも描くのです。これは私の役割であると同時に、こんなモチーフを与えてもらって、出会えて本当にげ芸術の神様の感謝します、という気持ちでもあります。「千住博の美術の授業 絵を描く喜び」千住博 著(P91)にあります。

現場ではモチーフとなった人間はすぐに立ち去ってしまうので、繰り返し何枚も描くことが出来なくなります。しかしそのままでは「記憶の中にあるもの」だけが増え続く、「見たもの」を作品に反映させる力が弱まってしまいます。

従って、現場で描いている似顔絵師の方には、ルーティーンの現場での作業とは別に、特定のモチーフを何枚も何枚も繰り返して描く。納得できるまで時間をかけて描く。という訓練を定期的に行うことをおすすめします。

モデルとの対話  2018.4.1
絵画では作品と作者との対話と同じように、作者とモデルとの対話が重要になってきます。

同じ人物の中の、髪の色、髪型、服との組み合わせ、靴。それが似合っているのかいないのか。好きで着ているののかどうか。あまり好きと思っていなくて着ているのか。座っている椅子はどういう感じなのか。座りやしぃのか、そうではないのか。愛情をもって観察してみましょう。との「千住博の美術の授業 絵を描く喜び」千住博 著(P25)に書かれています。

似顔絵ではこのモデルに対する「愛情」と「観察」がより重要になってきます。

また絵画では作者とモデルが実際に会話を通じてコミュニケーションをすることは一般的ではありませんが、似顔絵では、あくまでモデルの個性や特徴が主役になるので、モデルとの会話を通じて、その個性や特徴を探り、そこで探り当てた成果を作品に表現するということになります。


似顔絵はなぜ学問にならないのか?  2018.3.3
ある名画を掲載した美術書。そこではその名画が生まれた時代背景や作者の心理や意図なでが解説されていることが多いようです。そしてその名画がいかに優れているかをいうことを説明もしています。

しかしどうでしょうか?その名画を見て最初に解説文を読むのは、学者や研究者、学芸員などが主であり、一般の人ではないように思います。

まずはその名画を見て「感動するかどうか?」ということが重要であり、その「感動するかどうか?」は個人差があるはずです。そしてより多くの人が感動させることができた作品が「名画」と呼ばれているという考え方ができるのではないでしょうか?

似顔絵も基本的に同じことが言えるでしょう。似顔絵は絵画よりも「瞬間芸」「一発芸」的な要素が強く、そこで笑いや感動が取れなければ、その作品についての解説をしてもあまり意味はありません。逆に笑いや感動が取れなければ、それ以上の説明も不要になります。

お笑い芸人がネタをやっている最中に、観客が、そのネタがなぜ面白いかということを考えないのと同じです。似顔絵はイラストレーションや絵画に比べると、より衝動的で直感的なもののようです。従って学問と呼ばれるまでには至っていないのでよう。

ただし「お笑い学」という学問は実在していませんが、お笑いを学問にしようという試みは色々と行われています。
「お笑い」を学問する
お笑いは学問である。


いずれ、似顔絵も学問となるのでしょうか。。。しかし、いまのところ、分類としては「サブカルチャー」に近い感じでしょうか。

ハゲ  2018.2.7
ハゲは疾病ではありません。健常者の肉体的な特徴を示すもので「チビ」「デブ」「ブス」などと同列で使われることもあります。そしていまのところ差別用語にも該当していないようです。ただし誹謗や罵声、 罵倒、 悪態、 バッシングなどには使われます。

また基準もありません。やや薄毛である場合でも完全なスキンヘッドの場合でも使われることもあります。

しかしハゲには「恥ずかしい」「みっともない」という意識が伴います。そして「ズラ」というツールを利用して「ハゲ」をカムフラージュする人も少なくありません。

しかしハゲている人の似顔絵に毛を増やして描くというのは失礼に当たる場合もあります。逆にハゲを強調して描くと怒られる場合もあります。かといって正確に描写しようとして毛の量ばかりに拘ると、作品としての楽しさは失われてしまいます。

そこのさじ加減は、モデルとのコミュニケーションを含めた似顔絵師の「プロの技」ということになるでしょう。

また、似顔絵を描くときに似顔絵師はモデルの顔を観察します。穴の開くほど観察します。そして「ズラ」であることはかなり高い確率で見抜けます。見抜くポイントはいくつかありますが、人毛を使用していない「ズラ」の場合は、光の反射が異なるので、一発でわかります。ビルの7階から地上を歩く歩行者の「ズラ」もわかります。

ある会社でハゲている人が、ある日突然ズラを被って通勤してきたそうです。その時の事務所内の気まずい空気は空前絶後だったとのことです。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜皮角〜
 2018.1.18
慢性の紫外線曝露により誘発され、頭部・顔面などのに角質の突起物が現れる皮膚病です。現れる場所や大きさは様々ですが、頭部に「角(つの)」のような形状で現れることもあります。

頭部や額にこの皮角を発症した場合には、そのまま「鬼」を連想させるものになってしまいます。また日本の昔話や民話に登場する「鬼」は皮角の患者が元になったものだったのかもしれません。

皮角を連想させないためには、左右対称に2本の角を描くなどの方法がありますが、そもそもが似顔絵は漫画や風刺画とは異なるので、角を描くことで、安易に鬼をイメージさせるような表現は避けたほうが良いでしょう。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜脳性麻痺〜
 2018.1.4
1000人に約2人の割合で発症する、受精から生後4週までの間に、なんらかの原因で生じた脳の損傷が原因でおこる運動と姿勢の障害とされています。脳の損傷によって、送るべき信号がうまく筋肉に伝わらず、考えたとおりに動けなかったり、正しい姿勢をしたりすることが難しくなってしまいます。

脳の損傷部分の範囲や、発達過程に対する影響、どんな症状が現れるのかは患者によって異なります。 健常者との見分けがつかない程度の軽度のものから、自ら歩くことができず、車椅子での生活を余儀なくされている重症の人もいます。

似顔絵を描く上で脳性麻痺を連想しないように描くことは難しいかもしれません。健常者でも、痛いときや苦しいときに、脳性麻痺の人と同じような表情になることも普通にあります。気をつけるポイントとしては、四肢や首の不自然な曲がりを描かないこと、コルセットや自助具などの医療器具を描かないことなどがあるでしょう。

しかし実際に脳性麻痺の人のお笑いコンビ「脳性マヒブラザーズ」などもあり、脳性マヒを自虐ネタにしていたりもします。1000人に約2人の割合ということで一般に出会う機会も多く、脳性麻痺自体が「差別」や「誹謗」につながるという社会的な意識は薄れてきているようにも思います。

また、脳性麻痺の他、筋ジストロフィー、筋萎縮性側索硬化症、外傷による運動神経の疾患、などの人に「似顔絵を描いて欲しい」と頼まれることもあります。そしてこういった障がい者の多くは、障がいを個性と考えています。従って無理に健常者に見えるように描くのではなく、顔の歪みや独特の表情を、見たままに描いてあげたほうが喜ばれる場合が多いようです。ただし、いずれにしても「どんな描き方をするのか?」はモデルとなる障がい者本人の希望を聞いてからにしましょう。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜ダウン症候群〜
 2017.12.15
1862年の学会発表では、目尻が上がっていてまぶたの肉が厚い、鼻が低い、頬がまるい、あごが未発達、体は小柄、髪の毛は直毛で薄い、という特徴があるとされていました。

その後1959年に、21番染色体がトリソミーを形成していることが発見されて、新生児に最も多く発症する先天性疾患群であるということがわかりました。

ダウン症候群を連想させないために、上記の「目尻が上がっていてまぶたの〜」を全て避けていたのでは似顔絵自体が描けなくなってしまいます。しかしその中でもダウン症候群に共通した顔の特徴はあります。それは「顔の中心部があまり成長しないのに対して顔の外側は成長するため、吊り上った小さい目が特徴。」です。

具体的には、目鼻口が全て顔の中央に集まっていて、位置は固定されたまま顔の周囲の成長に引っ張られているような形状になっているように見えます。特に口の位置は上のほうにあり、顎と額の面積も相対的に広く見えます。また耳の位置は下にあることも多いようです。

日本の漫画家「地獄のミサワ」の描くキャラクターは、目鼻口が顔の中心に寄っていますが、両目の間が非常に狭いためにダウン症候群を連想させません。また、周囲の成長に引っ張られているような形状ではないということもポイントのようです。

このように、ある疾患を連想させる可能性がある場合には、他の部分で、その疾患には無い表現を用いることで、連想させる可能性を打ち消すことができます。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜小頭症〜
 2017.12.2
2015年にジカウイルスの感染が原因の奇形として話題になりました。 頭が小さい状態で生まれるか、出生後に頭の成長が停止してしまう疾患で、数千人に1人の割合で生まれると言われています。

小頭症は、頭が小さいだけでなく、知的発達の遅れやけいれん発作などの症状を伴うこともあります。

似顔絵では、頭を小さくデフォルメして描くことはよくあり、このことで小頭症を連想させないようにするのは、水頭症同様に難しいことです。

ただし、水頭症同様に、完全に避けることはできなくとも、可能性を下げることには考慮しておく必要はあるでしょう。

①目を必要以上に大きく描かない、また斜視に見えるようには描かない。 ②前歯を大きく描かない、または歯を出して笑っているような表情は避ける。などがあります。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜水頭症〜
 2017.11.16
似顔絵では、頭を大きくデフォルメして描くことよくあります。標準に対して少しでも大きい場合は、思いっきり大きく描いて個性を強調するという似顔絵の基本です。

これは頭に限らず、身体の各部位についても共通して行われる技法です。

そこで頭を大きくデフォルメして描くことが水頭症を連想させないか?というと、これはなかなか難しい問題です。

ただし、完全に避けることはできなくとも、可能性を下げることには考慮しておかないといけないでしょう。

①側面から見た前後方向の誇張は避けるようにする。
②目の視線を下に向ける、または目を閉じて苦しそうな表情には見えないようにする。などのポイントが挙げられます。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜先天性無鼻症〜
 2017.11.1
顔面の他の部分は、完全に正常であるにもかかわらず、鼻が全く形成されないのが先天性無鼻症という疾患です。

鼻孔と嗅覚器官が形成されていないため、口で息をすることになりますが、気管切開の手術も受けることで解決できます。そして元気に人生をまっとうできる可能性は高いとされています。

2億人に一人という低い確率での発症するようですが、見た目の印象は「不気味」とか「怖い」というより、「何か変?」とか「妙に可愛い」というもののようです。

アニメや漫画でも、鼻を省略することで可愛く見せるというのは、昔からある手法です。 そして、そのようなイラストは一般的にも非常に多く目にすることができるため、鼻の無い似顔絵から無鼻症を連想することは殆ど無いと思われます。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜三つ目〜
 2017.10.15
連想されるイメージとしては、三つ目がとおる(手塚治虫)、エイリアン(トイ・ストーリー)、天津飯(ドラゴンボール)、などがあります。ただし「三つ目がとおる」や「天津飯」のように額の中央に眼窩が追加されるという奇形は実在しません。従って実在する三つ目の多くは、たまたま額の中央のでき物や腫瘍、外傷やCGによる合成写真などのようです。

1926年に生まれた「ビル・ダークス」は、先天的に口蓋と鼻が大きく裂けている奇形でした。しかし彼はドサ廻りのサイドショーにスカウトされ、「三つ目の男」として売り出し、人気者になりました。ただし「三つ目の男」の三つ目の目は大きく裂けた鼻の間に描き加えたものだったのですが、観客の多くはそのことに気がつかなかったとされています。

つまり「エイリアン」のように眼球が横に3つ並ぶという奇形も、実在はしないということになります。

そこで唯一可能性があるのが、結合双生児の2つの顔が融合して、互いの顔の片側部分を中央部で共有しているケースです。これは厳密には4つ目であったり、共有している目が、目としてはきちんと生成されていない機能しない目であったりもするようですが、外見上は三つ目に見えることもあるようです。

結合双生児とは別に、日本の彫刻家、金巻芳俊(かねまき よしとし)氏の「タユタ・カプリス」という作品があります。この作品には12の顔がありますが、それぞれの2つずつの顔は三つの目を共有しています。金巻芳俊氏は他にも多面フェイス彫刻と呼ばれる作品を多く作っています。

いずれにしても三つ目の人間が生まれて、一定期間生存する可能性は殆ど無いものと思われます。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜双頭(結合双生児)〜
 2017.10.1
結合双生児の中には身体が一つで頭が二つの「双頭」と呼ばれるものがあります。発症率は一組/5万〜20万と言われています。アビーとブリタニーの結合姉妹やベトちゃんドクちゃんが有名です。

「双頭」は、人間以外の他の動物でも、古来より神の使いとして中国や東南アジアなどで崇められてきました。不気味さや奇妙さよりも、生命の神秘や偉大さを感じさせたのでしょう。

仏像の中にも「双頭」が存在しますし、神話の中にもオルトロス、アンフィスバエナなどが登場しています。ルネ・マグリットの作品「桟敷席」にも双頭の姉妹が描かれています。日本の漫画作品で半神(はんしん)は萩尾望都による結合双生児を扱った作品です。そして実際に、アビーとブリタニーも明るくポジティブに生きている様子がテレビで放映されています。

従って「双頭」の似顔絵が疾患や奇形を連想されるケースは少ないように思います。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜単眼症(サイクロピア)〜
 2017.9.14
発症率は、10000人に7人というデータもあるようですが、100万人に一人という情報もあります。いずれにしても、今の日本ではエコーで早期に判るために、中絶されて出産に至るケースは殆ど無いようです。

原因については、遺伝子の変異やビタミンAの不足、強い精神的ストレスや、母親が服用した薬や放射線の影響等が複雑に絡み合ってるとも言われています。単眼症は、本来二つに分かれて成長するはずの脳が何らかの原因で片側だけしか成長せず、それに伴って眼球も1つしか生成されないということのようです。

脳が半分しかないために、人間の場合には無脳症と同じく死産か生後間もなく死亡することが殆どのようで、記録に残っている最も長く生きた例は一ヶ月だそうです(無脳症では1年以上という記録もある)。生存例が無いために架空のモンスターや妖怪などに使いやすいという事情もあるように思われます。

連想されるイメージとしては、マイク(モンスターズ・インク)、ロンドン五輪マスコット、ミニオンズ、鬼太郎の親父、一ツ目タイタン(仮面ライダー)、一つ目小僧、ルドンが描いたキュクロープス(一つ目の巨人)などがあります。

単眼症の特徴としては、目の上に鼻の原型の象鼻と呼ばれる特異な形状を呈するものが存在します。

通常は眼が左右に分離した後に鼻がその間を通って眼の下方に位置するようになるのですが、単眼症では鼻の移動ができず、単眼の上方(額の部分)に象鼻として位置していることが多いようです。また脳が半分しかないために頭の容積が小さく、頭が成長しきっていないために両耳が顎の下付近に位置していることもあるようです。

従って、似顔絵として単眼症を連想させないためには、眼窩意外の部分は出来るだけ、正規の位置、大きさ、数に描くことがポイントとなります。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜プロテウス症候群〜
 2017.9.2
映画「エレファントマン」のジョンメリックの疾患として有名です。

しかし実際には、世界的にも症例が少なく、先進国全体で過去に500未満とも言われています。骨や皮膚が異常な成長をしてしまうモザイク活性化変異という遺伝子の病気で、日本では実例が無いとされています。

モザイク活性化変異は、変異対立遺伝子が 1%から約 50%の割合で混合して存在するための、身体の各部位が左右非対称に異常な成長をしてしまうことになります。

似顔絵として、このプロテウス症候群を連想させないためには、特別の理由が無い限りは、身体の左右片側のみを誇張して描かない。また、顔面への意味の無い左右非対称のデフォルメを避ける、等が考えられます。

似顔絵で疾患や奇形を連想させないために
〜トリーチャーコリンズ症候群〜
 2017.8.15
トリーチャーコリンズ症候群は、頭蓋骨の発育が不完全になる遺伝子の疾患です。目、鼻、口が無作為の位置に左右非対称に存在し、個人差も大きいようです。

発症率は1万人に一人と言われていて、連想されるイメージとしては、福笑い、ピカソのマリー・テレーズの肖像のようなキュビズムの肖像画、初心者が描いた明らか左右対称が描けていない石膏デッサン、などがあるかと思います。

似顔絵でトリーチャーコリンズ症候群を連想させないためには、微妙に左右非対称に見えるように描かないこと。意味の無い目鼻の位置の移動は控えること。作為的に崩れた(崩壊した)イメージを与えないようにすること、などが挙げられます。

しかしながらトリーチャーコリンズ症候群の患者やその家族はが、画集を開いてピカソのマリー・テレーズの肖像を見た途端に、その画集を閉じてしまうことでしょう。辛くて直視できないことは容易に想像できます。

ピカソのマリー・テレーズの肖像が有名な芸術作品であると。トリーチャーコリンズ症候群が極めて稀な疾病であること。との理由で、このことに言及する人もいないのでしょう。

キャンディーズの法則-3  2017.8.1
それではなぜこの一連の投稿のタイトルが「キャンディーズの法則」なのかを説明しましょう。

今風に言えば「パフュームの法則」でも「ベビーメタルの法則」でも良いのですが、おじさんおばさんでもわかりやすいように「キャンディーズの法則」とさせていただきました。

雑誌の表紙でキャンディーズの写真を使うとしましょう。そのとき、その写真を見た多くの人に「あっ、キャンディーズだ!」と、わからせることが重要になります。言い換えれば「あっ、キャンディーズだ!」とわからせるだけで良いのであって「ランちゃんとスーちゃんとミキちゃんだ!」とまで言わせなくてもいいのです。

つまり3羽1からげでのキャンディーズであって、それ以上の各個人のキャラクターや個性を表現することはしないで良いのです。3人まとめてボワっとキャンディーズであるだけで良いのです。

そうすることで、見た人は雑誌の表紙に書かれた各記事のヘッドラインやタイトル、その他諸々のテキスト情報に目を移すことができます。つまり写真を見た後には、素早く文字情報に視線を誘導しなければいけないということが重要なのです。

仮にランちゃん、スーちゃん、ミキちゃんの写真が、各自の個性を強く表現した、物語性のある、芸術性の高い写真だったとしましょう。そうすると見た人はそこで色々なことを想像し、考えてしまいます。そして諸々のテキスト情報に目を移すことをしなくなるかもしれません。

増して雑誌というものは一般大衆がターゲットであって、芸術性や深い思考を求めたりするものではありません。浅く、軽く、早くあるべきものなのでしょう。

これは同じく大衆芸能としての要素の強い「浮世絵」についても言えることなのでしょう。浮世絵に書かれた「顔」がみんな同じようであるのも「キャンディーズの法則」なのかもしれません。ただし浮世絵には多くのテキスト情報はありません。その代わり絵としての構図や背景などで、全体的に訴える「雰囲気」「世界観」「空気」のようなものを優先するために、描かれた人の顔の個性は敢えて殺しているのかもしれません。

キャンディーズの法則-2  2017.7.14
人間の目は、一般的に複数の人の顔を同時に見ることはできません。もちろん同じ視野の中に複数の顔を入れることはできます。ただし、その瞬間に、それぞれの顔の表情から、その人の感情や思考を推測したり、読み取ることは困難になります。

感情や思考を読むには、相手と1対1で対時しない限りは、脳の処理能力が追いついてはいけなくなるでしょう。

従って、肖像画やポートレイト写真は1枚の絵(写真)に描く(写す)のは基本的に1人なのです。複数を描く(写す)と見る側の視覚と脳の処理が追いついてはいけぜに、散漫になってしまいます。1枚の絵は、ひとくくりの限定された視覚空間なのです。

だから、1枚の絵(写真)に複数の人の顔を描く(写す)場合には、その複数の顔は、同じような顔に描く(写す)のです。

キャンディーズの法則-1  2017.7.1
日本の浮世絵でも西洋の油絵でも最近のグラビアでも、1枚の絵(写真)の中に描かれている(写っている)人の顔は似たような顔である場合が多いようです。

なぜかと言うと、そのほうが納まりが良く、1枚の絵(写真)としてのまとまりが良いのです。

仮に1枚の絵(写真)に3人の顔が描かれて(写って)いて、それぞれが「似顔絵」のように、その人となりや個性が強調された、デフォルメされた絵(写真)であった場合には、作品としてのポイントが散漫になり、見る側にとっても「どこを見ればよいのかわからない」ような落ち着きのないものになってしまうはずです。

もしも、1枚の絵(写真)に描かれて(写って)いる顔が「似顔絵」のような強烈な個性を表現していた場合には、その「顔」の部分にだけ注力させるような、衣装や背景の簡略化や、無理のない構成や配色などの工夫も必要になるでしょう。

似顔絵の肖像権について-3  2017.6.14
似顔絵の肖像権については「似てるかどうか?」という問題もあります。作者は似てると思っていても、客観的に見れば「全然似てない!」似顔絵は「似顔絵」と言えるかどうか?という根本的な問題です。

実はそこのところが非常にファジーであるために。テレビのワイプなどで写真が権利上使えない場合に似顔絵が使われます。また裁判でも写真撮影は禁じられているので被告や裁判官の似顔絵が使われます。

いずれも似顔絵は写真ほどのリアリティーはなく、本人と特定しづらい。という前提があるのだと思います。まだまだ似顔絵というものの認知度と地位が低く、世の中には多くの駄作が出回っているということが、その要因になっているのかもしれません。

しかし似顔絵作品の中には「写真よりも似ている!」「本人よりも似ている!」というものもあることは確かです。

「全然似てない!」似顔絵には、似顔絵の同じ画面内にモデルとなった人の名前が書かれていたり、その人と特定できるような衣装や小道具が描かれていたりします。

例えばへのへのもへじにACミランの背番号10のユニフォームを着せて、その画面の傍に「本田圭佑」と書かれていた場合に、その絵が「本田圭佑の似顔絵」と言えるのかどうか?という問題もあるわけです。

さらに写真をPhotoshopのフィルタで加工したもの、また作品の一部にそういった加工を施したものを「似顔絵」と呼べるか?というような問題にも発展していきます。

似顔絵の肖像権について-2  2017.6.1
有名人の似顔絵を、個人のウェブサイトで公開したい場合があったとします。「商用利用」ではなく、見た人を楽しませることだけが目的だったとします。

そこで、念のため、その有名人のプロダクションに掲載許諾依頼のメールをしたとします。しかしほぼ100%は返信が来ないと思って間違いないでしょう。

まず、プロダクションはそんな細かい依頼にいちいち構っている暇はありません。そして作品がエロ画像やグロ画像の可能性もあり、著しくイメージを損なうものかもしれないので、安易にOKは出せません。OKを出すのであれば、掲載する作品の事前チェックをしたり掲載条件を規定したりしなければいけなくなります。ただし、ただでさえ忙しいプロダクションが一銭の利益にもならないことで、そんな作業はしてれられません。仮にレスするのであれば、諸々の事情を踏まえれば「NG」と言うしかありません。

とはいっても似顔絵が公開されることでの宣伝効果に繋がり、ファンが増えて間接的にプロダクションの利益になる可能性もあります。

従って、基本的にはNGなんだけど、多くの場合は見て見ぬ振りで、度が過ぎる場合には対応を考えるというスタンスのようです。ただし、個人が及ぼす影響などというものは、たかが知れています。

また、普通は訴える前に、削除要求が来るはずです。もし、迫女要求が来た場合には、素直に応じる心構えも必要です。応じないで戦ったとしても、損することはあっても得をすることは何も無いでしょう。

似顔絵の肖像権について-1  2017.5.14
これははっきり言って全てがグレーゾーンであり、具体的に訴訟と判例がないと、良し悪しは判断はできません。ただし幾つかの押さえておく必要があるポイントはあります。

その1つは「商用利用」してはいけないということです。特に有名人の場合、「有名人の顧客収集力を利用した営利行為」に該当します。個人の趣味の範囲であれば、その多くは黙認されますが、有名人の似顔絵を掲載した印刷物を販売したり、有料会員サイトで公開したり、掲載したページ内に他のサイトの広告バナーが貼ってあったり、アフェリエイトを行っていた場合などには「有名人の顧客収集力を利用した営利行為」に該当し、訴えられる可能性があります。

「商用利用」をするのであれば、その有名人の事務所やプロダクションに正式に許諾をとり、きちんとしたビジネスとして利用する必要があります。ただし、使用料金の設定や、二次利用の防止、利用条件の設定など、煩雑で手間のかかる問題が多く、多くの場合、許諾は得られないようです。

画家とイラストレーターの違い  2017.5.1
画家とイラストレーターの違いとは、簡単に言うとイラストレーターは「作品が完成するまでの時間が短い」ということで、画家は「作品との対話の時間が長く、なかなか作品が完成しない」ということでしょう。

言い方を変えれば、イラストレーターは、完成した作品に、そこからさらに筆を入れることを嫌います。また、筆を入れることで完成度が下がります。つまり「完成」という着地点が時間軸の中で予め決まっているということになります。

また、イラストレーターの作品には「マチエール」の必要は無く、画家の作品には「マチエール」が必要だということになります。

では似顔絵はどうでしょうか?一般的には似顔絵師はイラストレーターに近いと思われがちですが、「似るまで描く」または、「似て無いうちは、描くのを止めてはいけない」という点では、画家に近いかもしれません。

美容整形  2017.4.15
整形外科学とは、人体の骨・関節・筋肉等の運動器系を主に診療研究する外科学の一分野とされています。従って「美容整形」は、正しくは「美容外科」ということになるようです。

美容外科は1978年(昭和53年)に医療法によって正式に標榜科目に認可されました。まだ40年経っていないということになります。

ヤミとか地下で受けた美容外科手術は別にして、日本国内で正規に受けた美容外科手術では、その患者(というより顧客)が、50年後、60年後にどのようになるかという事例は無いということになります。

似顔絵を描くために顔を観察していると、美容外科手術を受けた顔というのはだいたい判別できます。鼻は動きが少ないのでなかなかわかりませんが、目や口元は皮膚の変化が大きいので、普通では有りえない箇所に笑い皺が出来たり、不自然に引きつったりします。

人間の皮膚は年齢とともにだんだんと弛んでいきます。それは、部分的にストレスがかからないように、全体に平等に自然に力を逃していくようになっていきます。その動きや流れを人為的に変えてしまうと、加齢による皮膚の弛みと共鳴したり相殺したりしてしまうかもしれません。

笑っているのに怒っているような顔になる。深刻なのにほくそ笑んでるような顔になる。というようなことです。

場当たり的な、その場だけのメリットを求めると、長期的に見た場合にはデメリットのほうが大きいという一般論でもありますが。

だいたい良いと言えます  2017.4.1
なんやかんや言っても、人間という動物の顔はだいたい似たようなものなのです。その似たような顔の中から無理矢理にその個体が持つ特徴的な部分を見出してデフォルメという手法によって個体が判別できるようにするものが「似顔絵」なのです。

基本的に似たようなものなので、そうそう特徴的な部分は見出せません。見出せるとすれば、一般的には「口」「目」「顔のシルエット」などといった瑣末な部品であり、個体によっては、それが「鼻」「眉」だったりもするわけです。

そしてそれがもっと瑣末な「髪」「衣服」であったりもするわけです。

所詮は全ての要素をその個体の特徴的な部分をデフォルメするというのは相応な労力を要するわりにコスパは高くありません。

従って特に個体の特徴が表現しやすい1〜2つを的確に表現できれば、他の部分は「適当」「手抜き」「何でも有り」でも、だいたい良いのです。

人工物に似せた似顔絵  2017.3.16
本人が普段着ていないであろう衣装を着せて描く。本人が人前では絶対にしないであろう動作やポーズを描く。全く別の職業に見立てて描く。などで似顔絵の「意外性」と「見る人の想像力」が広がります。

また、構造も形も用途も大きさも存在意義も人間とは全く異なる「道具」や「無機物」や「製品」に合体させた作品というのも非常に味わい深いものがあります。制作にもかなりのエネルギーを要するので、事例は多くはありませんが、以下のような作品が該当します。 人工物でも「乗り物」のように動く物であれば、その進行方向がそれとなく「顔」に見えるデザインをしていますが、顔的な部分が存在しない「道具」や「用品」はかなりの無理矢理感が漂う物になりますが、そのこじつけ感がかえって面白かったりもします。

動物に似せた似顔絵  2017.3.1
あの人を動物に例えると?色々とイメージしやすいですね。動物は人間と同じく、目が2つ、手足が2本ずつでイメージを重ね合わせやすいです。例えば以下のような作品です。 以上はその中のほんの一部で、特に分かりやすい作品を抜粋したものです。上記以外のも「犬っぽい」「猿っぽい」「馬っぽい」作品は沢山あります。特に哺乳類はそもそもが構造的に人間に似ているので、デフォルメしていくうちに自然と何かの動物に似てくることも多いです。

一般的には「ゴリラ」や「クマ」がハマりやすいと思われがちですが、実は「カエル」「アザラシ」「フクロウ」が妙に人間っぽい顔をしています。

似顔絵では何が重要か?-シチュエーション  2017.2.16
似顔絵のモデルが置かれる絵の中のシチュエーションによって見る人の印象は変わってきます。そしてそのシチュエーションは見る人の経験や興味によって、展開が広がり連想が連想を呼び色々と面白くなってきます。

何かを食べさせたり、楽器を演奏させたりすると、見た人は「ほんとにこの人はこんなことできるの?」と勝手に想像します。

さらに誰でも知っているアニメのキャラなどを合体させるとさらに想像が広がり楽しい作品になります。以下はその一部です。

似顔絵では何が重要か?-目  2017.2.1
「目」を強調するということは、ほとんど全ての似顔絵に共通しています。また、「目」を省略してしまうと、ほとんどの似顔絵が「誰だか分からなく」なります。

仮に「目」を省略してしまうと、口や鼻、顔のフォルムや髪の毛、衣装やシチュエーションを総動員で補い「誰であるか」を示唆させなければなりません。そうなると「そこまでして描くのか?」という疑問が生じてきます。

ただし「目」を省略することはできませんが、描いてある「数」を変えて印象を操作することは可能です。
ルー大柴
高津臣吾(元ヤクルト)
久保純子
細川ふみえ
友近
イ・スンヨプ(元巨人)
小池百合子
ゲスの極み乙女。

似顔絵では何が重要か?-鼻の穴  2017.1.14
「鼻の穴」を描くだけで、なぜか下品で貧乏臭い雰囲気になってしまいます。従って、かっこよく見せるために描いてはいけない要素の1つです。

人間にとって「鼻の穴」は呼吸をしなければいけない欠かすことのできないパーツです。しかし呼吸を行うための「穴」として以外には、臭いを感ずる程度の役割しかありません。しかも「鼻くそをほじる」という行為をイメージしたり、「ブタ」という動物を連想させたりします。

しかし似顔絵を描くに当たっては、下品で貧乏臭い雰囲気の他に「コミカル」なイメージを醸し出すときに使いわれるようです。
関根麻里
ケイン・コスギ
山尾志桜里
研ナオコ
堀江貴文
上西小百合
筒香嘉智(横浜DeNA)
森昌子
浅茅陽子
大泉洋
小保方晴子

ほぼ全ての似顔絵に取り入れることのできる要素とも言えます。

似顔絵では何が重要か?-歯  2017.1.1
アニメやコミック名度で主人公を美しく、かっこよく見せるために描いてはいけないのが「歯」です。

そして「歯」が見える状況というのは「笑っている」「食べている」「喋っている」といったシチュエーションになります。ただしよほどの空き歯で無い限りは歯の1本1ぽんまでは見えません。これを逆手に取って歯の1本1ぽんを描くことで非常に下品な雰囲気になります。

歯の1本1ぽんが見える状態とは、唾を飛ばすような勢いで喋っている、大声で笑っている、というよう場面を直近で見ているということになります。従って見てはいけないものまで見てしまったような仄かな罪悪感を含めた品の悪さが表現できます。

歯を描いた有名人の似顔絵には以下のようなものがあります。
杉田かおる
吉田美和
前田敦子
フィフィ
松下奈緒
ベッキー
上村愛子
にしおかすみこ
蓮舫
福士加代子
久本雅美
榊原郁恵

実際にはこのサイトの似顔絵作品の5枚のうち1〜2枚は歯が描かれています。従って上記はそのほんの一部ということになります。

似顔絵では何が重要か?-髪  2016.12.15
まずは髪から描くという人が多いようです。描かれた人も喜ばすという意味では髪を正確に描くということは大切かもしれません。また、髪は動かないので観察もしやすく、髪を描いただけで「う〜ん、雰囲気が出てきた」と勘違いすることも多いのです。

しかし似顔絵は顔を描くものです。髪は描かなくてもその人であると判らせることができます。「えっ、そうなの?」と思われるかもしれませんが、例えばあなたが美容院に行って髪型を大きく変えて家に帰ってきたとしましょう。すると家の人は「あら、いいじゃない、その髪型」とか「印象が変わったね」とか言います。決して「失礼ですがどなたですか?」とか「すいませんが部屋、間違えてますよ」とか言いません。つまりいくら髪型を変えても「その人」であることはわかるのです。

顔において髪の占める面積は大きく(大きくない人もいますが)、一見大切なように見えますが、髪によって感情や気持ちを伝えることはできません。髪によってその人の「人となり」を表現することはできません。

髪を省略して描いた有名人の似顔絵には以下のようなものがあります。
相葉雅紀
柴田理恵
高橋尚子
安室奈美恵

まずは髪以外の部分で似せましょう。髪を描くのは最後の最後の最後にしましょう。

似顔絵では何が重要か?-口  2016.12.1
顔の中で最も形状が大きく変化するのが口です。目もその人の個性を表現する上で重要ではありますが、目の形状の変化の範囲は限られています。

それに比べて口は「開く」「閉じる」の差が非常に大きく、歯を見せるか見せないかで印象も大きく異なります。しかし唇や歯並びには個性はあるものの、口そのものには実はあまり物理的な個性というものは見当たりません。

口は生命を維持するために食料を挿入する穴なので、その挿入する食物の大きさや形に応して口の形状も大きく変化させる必用があります。蛇と同じです。従って個体差や個性があったにしても「開く」「閉じる」の差が非常に大きいため見つけられないのかもしれません。

しかし蛇と人間が違うのは、人間は「食べる」ということ以外に、口を使って「会話」というコミュニケーションを行います。「会話」には相手に自分の意向や気持ちを伝えるという役割もあり、そこで口の役割は重要になってきます。動かない部品である「鼻」や「耳」では意向や気持ちを伝えるということはできません。

似顔絵を描くときの「口」は、そこにその人の物理的な個性を見出すのではなく、いかにそのひとらしい、キャラを反映させた表情を捉えるかというほうが効果的で効率的あると言えます。

似顔絵では何が重要か?-名前  2016.11.20
有名人の似顔絵を描いた画面の片隅にその有名人の名前が書いてある似顔絵を見かけます。これは最悪です。「私の似顔絵は名前を書かないと誰を描いたのかわからないくらいに下手くそです」と自白しているに等しいのです。

名前を書くのであれば最初から「絵」は必要無いと言ってよいでしょう。有名人であれば見た人はその有名人の顔を思い出し、イメージすることができるはずです。絵と同じ画面上に名前のテキストデータが同居していれば、どうしても人はその名前のほうを読んでしまいます。名前が書いてあれば、絵のほうは「棒人間」でも「へのへのもへじ」でも構いません。

試しに「有名人の似顔絵」をキーワードにGoogleで画像検索してみましょう。たま〜に有名人の名前が書いてある作品が出てきます。そしてそんな作品に共通しているのが「似てない」ということです。名前でなくても、その有名人の歌っている歌詞の一部や、頻繁に口にする言葉や、キャッチフレーズのようなものが書いてある場合もありますが、そういった作品も、押し並べて似ていません。

似顔絵では何が重要か?-鼻  2016.11.2
デッサンなどでは顔の構造的な中心にある「鼻」を基準に顔の構造をイメージしていくという方法もあるが、似顔絵の場合、鼻のプライオリティーは極めて低いのです。

よほど鼻が高いとか、鼻の穴がでかいとか、鷲ッ鼻であるとかの特徴がある場合を除き、目や口のように動きのない「鼻」というものは、見た人の印象も薄く、場合によっては省略しても誰であるか分からせるには十分なのです。

鼻を省略した有名人の似顔絵には以下のようなものがあります。
江角マキコ
雛形あきこ
宝生舞
井上和香
ケイト・モス
木村佳乃
桃井かおり
三宅宏実
錦織圭

また、鼻は、その個人の特徴というより、人種としての特徴を表現することにもなり、個人をキャラクタリスティックに描く「似顔絵」には、鼻を誇張することが必ずしも相応しくない場合もあります。

似顔絵では何が重要か?-顔のフォルム  2016.10.15
顔のフォルムを間違って描くと、他の部分がどんなに似ていたとしても「似てる」と感じさせる似顔絵に仕上げることは困難になってきます。

特に「目」や「髪型」に特徴があるモデルを目の前にしたときには、早く「目」を描きたい!と思う気持ちが「顔のフォルム」の観察と表現を蔑ろにしてしまう傾向が強くなってしまいます。「顔のフォルム」は家を建てる時の「土地」のようなもので、土地の広さや形を間違って設計してしまうと、計画通りの家を建てることができなくなります。

正確に観察して、的確なデフォルメを施すことが、似てると思わせる似顔絵を構築することの土台となるのです。

また、この土台の時点では、他のパーツ(目、口、鼻など)よりも思い切って極端なデフォルメを施すことが重要になります。「顔のフォルム」はカタチだけで見せる部分なので、普通に描いたのでは印象は薄くなります。そして目、口、鼻などのパーツを配置していく上でも重要なポイントとなります。消して手を抜いてはいけないプロセスなのです。

似顔絵では何が重要か?-体  2016.10.1
似「顔」絵なので「体」はあまり関係ありません。というか全く関係ありません。「体」だけの特徴を描いて、その人と分からせる「絵」もあることでしょう。例えば「イチロー」がバッターボックスで構える前の一連のルーティーンの1コマを特徴的に描くことで、たとえ顔を描かなくても「イチロー」であることを分からせることができれば、それはそれなりに評価できる作品ということになるでしょう。

しかし多くのイチローの似顔絵は、マリナーズやヤンキース、マーリンズのユニフォームを正確に描き、背番号が51か31であり、体型やルーティーンの1コマが似ていなくても明らかにイチローであることがわかるものになっています。しかも顔が全然似ていなかったりもします。これでは「似顔絵」とは言えないでしょう。

他のスポーツやアイドルグループであっても、ユニフォームや衣装を正確に描くことで、無理やりの「その人であること」を分からせるというのはの似顔絵では「反則」と言える行為でしょう。

裸で、筋肉のつき方や体型の特徴を描いて、顔を描かなくても「その人」と分かるような絵であれば、それはそれで素晴らしい作品と言えるでしょう。しかし、それで誰であるかを見て分かるのは相当なマニアックな人でしょう。または家族にしか分からないかもしれません。

裸の体だけで誰だか分かるのはこの方ぐらいでしょう。

仏頂面  2016.9.16
「仏頂」は「仏頂尊」のことで、仏頂尊とはお釈迦様の頭上(仏頂)に宿る広大無辺の功徳から生まれた仏であるとのことです。

仏頂尊は威厳に満ちていて、知恵に優れている顔をしているのですが、無愛想で不機嫌にも見えることから「仏頂面」という言葉が生まれらしいのです。

その他にも、嫌そうな顔つきの「不承面(ぶしょうづら)」が転じたとする説や、ふて腐れた顔つきの「不貞面(ふてづら)」から「仏頂面」になったとする説もあるとされています。

いずれにしても「仏」は実在しないわけで、仏像彫刻でしか我々は見ることができません。その仏像彫刻が無愛想で不機嫌にも見えるとするならば、それはモデルとなって模倣された実在する人間が、威厳に満ちているものの、無愛想で不機嫌にも見えた顔をしていたのでしょう。

そして現在でも、仏頂面をした部長とかはどこの会社にも居ます。決して無愛想で不機嫌なわけではなく、物理的な顔の作りが仏頂面に見えるのです。

いずれにしても威厳に満ちていている顔と、不機嫌な顔は紙一重のようです。

どう受け入れるか  2016.9.2
自分の顔を「美人」とか「イケメン」だと思っていた普通の人は、そのほとんどが「美人」でも「イケメン」でもない普通の顔です。そして「負」(だと思っている)特徴を誇張されたような似顔絵を描かれてしまった場合、その作品を即座に受け入れることはできません。

その作品は明らかに自分が普段見ている「鏡の顔」や「写真の顔」とは違っています。

しかしよーく考えてみると、違っているのは似顔絵ではなく、自分が普段見ている「鏡の顔」や「写真の顔」のほうなのです。

そのことに気がつかない人、または気がつきたくないと思っている人は、いつまで経っても負の特徴を誇張されたような似顔絵は受け入れることはできません。

本当の自分の姿を「見まい」とする気持ちが、真実を真摯に受け入れようとする気持ちを上回っているうちは、色々な意味で、何をやっても世の中から評価されることは難しくなるでしょう。

普通の顔  2016.8.14
似顔絵を描かれた人の立場で考えてみましょう。自分ではどう見ても似ていない。自分とは思えない作品が仕上がったとします。もしも似顔絵イラストレーターと自分の二人だけしかその場にいないとしたならば「似てないよ!」「描き直し!」とか言えるかもしれません。

ところが数人の友だちがその場にいて「うわっ!そっくり!」「すげー、超似てるわ!」とか言ったとします。そうなると「似てないよ!」「描き直し!」とは言えなくなります。

実はほとんどの人は自分の顔というものを正しく、客観的に見ることはできないのです。鏡を見るとき、カメラを向けられたとき、には知らず知らずに「鏡用」「カメラ用」の顔になっているのです。そしてその「鏡用」「カメラ用」の顔は、普段の生活の中で、友だちや家族から見られてる顔とはかなり違っています。

多くの人は実際よりも自分の顔を「美人」に、「イケメン」に思っています。ところが残念ながらほとんどの人は「普通の顔」の人なのです。

距離感  2016.8.1
欧米と日本の大きな違いの一つが「部屋の広さ」です。そして部屋が狭いということは、自ずと住んでいる人たちの距離感が変わってきます。

欧米人は個人を識別するためには動作、衣服、雰囲気、声など、人間全体を見て判断します。日本人は個人を識別するためには顔を見て判断します。

だから日本語には「顔色を窺う」「顔が揃う」「顔に泥を塗る」「浮かない顔」「何食わぬ顔」など、顔と表情に関する慣用句が多いのでしょう。

欧米人は身体も大きく、動作もダイナミックで、コミュニケーションする時のお互いの距離も日本人より離れていて、身体全体を使ってコミュニケーションします。

顔に重点を置いた日本人のコミュニケーションの方法が「似顔絵」という文化を築く基礎となったのかもしれません。

蝋人形  2016.7.16
ヨーロッパのマダム・タッソーの蝋人形館は実によくできているという印象を受けます。これに対して東京の蝋人形館はイマイチという印象を受けます。

どこが違うのでしょうか?まずは白人の肌のほうが透明感があり蝋での表現がしっくりいっているのではないか?ということを考えましたが、ヨーロッパにも黒人や東洋人の蝋人形はあります。蝋人形自体のクウォリティは恐らくヨーロッパも東京も同じではないかと想像します。

では何が違うか?それは「演出」ではないでしょうか。東京の蝋人形館は限られた狭いスペースに所狭しと蝋人形が並んでいます。

ヨーロッパのマダム・タッソーでは廊下から部屋の中を覗くと、部屋の片隅に小さな机があり、そこでアンネ・フランクの蝋人形が執筆しています。1体の蝋人形のために部屋も1つ作ってあるのです。

また、廊下を曲がると正面にいきなりボリス・ベッカーがラケットを持って廊下の真ん中で構えています。

基本的に入場者が少なく土地も広いということもありますが、モデルとなった有名人をどのように見せれば最も効果的であるか、ということを周到に考えてあります。

東京は残念ながら、モデルとなった有名人をどのように見せれば最も効果的であるか、というのは衣類とポーズを工夫するにとどまっているようです。

不気味の谷現象  2016.7.1
人間そっくりな姿のロボットを目の前にすると、人はどこか不気味な印象を受けます。これは「不気味の谷現象」と呼ばれるもので、ロボットがより人間らしく作られるようになるにつれ、ある時点で突然強い嫌悪感に変わるというものです。しかしこの「不気味の谷」を越えればより一層の親近感を覚えるようことになります。

これは東京工業大学名誉教授のロボット工学者の森政弘氏が1970年に提唱した理論です。

このことはロボットだけでなく「似顔絵」にも当てはまることではないかと思います。まず本人そっくりに描かれたリアルな絵、または「写真」は、「不気味の谷」を越えた一層の親近感を覚えさせる成果物であるとしましょう。次に本人に似せて描かれたコミック風なイラストやアニメ風なポンチ絵みたいものは、人間らしく作られるようになる初期段階のロボットとしましょう。

そして本人の特徴を捉え、見事にデフォルメされた似顔絵は、描かれた本人にとっての「不気味の谷」の中に存在するものになるのです。従って本人が「私の似顔絵」として大事にしているのは、リアルな絵かコミック風なイラスト、のどちらかになります。

「不気味の谷」に存在する見事にデフォルメされた似顔絵は、周囲の人間がどんなに「似てる〜!」と言おうとも、本人的には「不気味の谷」でしかないのです。だから世の中には似てない似顔絵ばかりが多くなってしまうのです。

何の絵が難しいか?-2  2016.6.15
では肖像画や人体デッサンなどの人間の絵はどうでしょうか?人体には骨格があって基本的には左右対称形であり、各関節を支点として様々な動きをするということを考えれば決して簡単なものではありません。

ただし人間を描くということは、人体を正確に描写することよりも、「人」を描く、「人の表情から推測できる感情や心」を描く、その人「個人」を表現するということに目を奪われてしまいます。

仮に描く対象物が「馬」であった場合、「馬」は人間ほどの表情もないので、「馬」の絵を見た人は、その「馬」としてもリアリティーや躍動感、生きる力のようなテーマに注力することになります。つまりきちんとデッサンのできた馬でないと、なかなか絵としての魅力は伝えられないということになるでしょう。

動物は基本的に「裸」です。人間は「衣類」や「アクセサリー」を身に付けています。人間は動物として生きているだけではなく、その動作にも色々と意味があります。つまり本当にモチーフとしての人間を正確に描写することは難しいのですが、その反面では色々と誤魔化しが効く、ということになります。

一般的には「人間は描けるけど、馬は描けない」という人が多いのはそんな理由からでしょう。

何の絵が難しいか?-1  2016.5.22
何の絵を描くのが難しいか?を語る前に、どんな絵が最も描くのが簡単か?を説明しておきましょう。まず一番簡単なのが空、雲、森などの風景画。なぜ簡単かというと、空、雲は形がどんなに狂っていても、色彩がどんなに違っていてもわからないのです。

では最も難しいものは何か?というと人間が作った工業製品です。例えば自動車を遠近法で正確に描くのはプロのイラストレーターにとっても至難の技であり、何度も何度も描き直さないと納得のいく絵には仕上がりません。

例えば倒れた自転車を起こして人が乗っても走れるように描くのも同様に非常に難易度の高い作業です。

例えばペットボトル。水が入った雰囲気を描くのは根性さえあれば何とかそれらしく描けますが、フリーハンドで楕円を正確にデッサンするのは簡単ではありません。自称「絵が上手い」という人でもペットボトルを正確にデッサンできる人は限られています。本当の絵の実力を知るにはペットボトルや水道の蛇口を描くと一目瞭然です。 

左右非対称  2016.5.1
似顔絵を描くにあたってはモデルを目の前にして描くことが理想なのですが、写真や動画を見て描かなければいけないケースも少なくありません。動画であれば動きや表情の変化の様子が観察できて、モデルを目の前に居るのと近い状態で描くことができます。

ところが写真を見ただけでは、なかなかそのモデルのキャラや「人となり」を掴むことができません。写真をモデル本人が選ぶ場合には、基本的に「似てない写真」を選ぶことが多いようで、その人の「らしさ」ようりも「かっこ良く撮れてる写真」「キレイに写ってる写真」を優先してしまいます。結果として、似ている似顔絵ではなく、「かっこいいお兄さん」「キレイなお姉さん」になってしまい、似顔絵を描くという意味がなくなってしまいます。

とはいっても自分で自分らしい写真を選ぶのは難しいです。客観性の有無とは別に、左右非対称という問題があります。

多くの人の顔は左右非対称であり、自分が鏡で見たときの顔と、他人から見た顔または写真に写った顔とでは、左右が逆になりぱっと見の印象が違って見えます。例えば「麻生太郎」「毛利衛」「北野武」などは左右非対称の代表的な顔です。

逆に左右対称な顔の有名人としては「草薙剛」「香椎由宇 」「水野美紀」などになるでしょうか。

いずれにしても似顔絵を描くときのポイントの一つが、顔の左右をどう描き分けるか?ということが挙げられます。

3Dプリンター  2016.4.13
マイクロソフトから発売されたKinect(キネクト)というゲームコントローラーデバイスがあります。このキネクトを利用することで人物の360°の静止画データを撮ることができます。

そしてそのデータを3Dプリンターで再現することで、比較的簡単にそのモデルとなった人物の「フィギュア」を作ることができます。

キネクトは1万円ちょっと、3Dプリンターも家庭用で20万円以下でそれそれ購入できます。あとはこれらの機器とパソコンの操作でできる人間(特別で高度が技術が必要なわけではありません)が1人いるだけで「フィギュア」ができてしまうわけです。

「フィギュア」はバストアップのもので高さ3cm程度のものであれば1時間以内で出来てしまいます。ただし色は素材の色1色です(素材の色を選ぶことは可能です)。

3Dプリンターの技術はまだまだ発展途上で、これからは、もっと早く大きなサイズのものも出来るようになるでしょう。素材の1色だけではなく、フルカラーの「フィギュア」も可能になってくるでしょう。

そして、ご察しの通り、この「フィギュア」は、似顔絵の需要と重複します。3Dプリンターによる「フィギュア」には似顔絵イラストレーターのような特殊なスキルは不要ですし、自分の「フィギュア」ができた時の感動は似顔絵に匹敵(もしかするとそれ以上)するものがあります。

そしてモデルそのままのデザタルデータが元になっているので「似てな〜い!」と言うこともできません(言っても誰にも信んじてもらえません)。

これはタイヘンな時代になった!と思われるかもしれません。似顔絵イラストレーターの仕事はなくなるのではないか!と思われるかもしれません。

でも、きっと大丈夫でしょう。世の中に「カメラ」と「写真」が登場しても、似顔絵という文化は残ってきたわけですから。

「リアル派」と「デフォルメ派」  2016.4.2
似顔絵イラストレーターの中に似顔絵を「リアル派」「デフォルメ派」に勝手に分類している人がいるようです。そしてその人は「私はリアル派なのでデフォルメは描かないんですよ」と言っているようです。リアル派というのは見たものをそのままリアルに描くということで、日本中の美大生や美術予備校生が描いている、いわゆる「デッサン」や「クロッキー」と同じこともしているだけです。

描くほうにしてみれば「デッサン」や「クロッキー」は、そのものが作品ではなく、作品を描くための習作です。見るほうにしてみれば、これだけデジカメが普及した時代に、見たままにモノを描くという行為は不毛なものに映るでしょう。ただし「人間が描いた」という事実があるから「凄い!」と感じるのであって、デジカメで撮ったものであれば「凄い!」と感じることは無いでしょう。

つまり似顔絵の「リアル派」などというものは存在する意味がないのです。リアルを求めるのであれば写真でいいでしょうし、リアルな絵を求めるのであれば美術予備校に通えばいいでしょう。

デフォルメは写実(リアル)の10倍も100倍も難しいのです。見たものを描くだけはなく、そこに作者のデザイン構成力や表現力、洞察力などが要求されます。そのデフォルメの10倍も100倍も簡単なリアル(写実)しか描けない似顔絵イラストレーターは似顔絵イラストレーターとは言えないでしょう。

自称「リアル派」の似顔絵イラストレーターはあたかも「リアル派」と「デフォルメ派」が対等なようなことを言いますが、これは明らかに対応ではありません。「リアル派」は「デフォルメ派」よりはるかに格下なのです。

「デフォルメ派」は写実(リアル)を描くことはできますが、「リアル派」はデフォルメは描けないのです。

萌絵  2016.3.23
萌絵的なイラストというのは50年前は少女漫画だけの世界でした。それ以前にも「喜一の塗り絵」に代表されるような萌絵の原型とも言える少女漫画風なイラストレーションがありました。

今でこそ萌絵というイラストのカテゴリーは市民権を得ていますが、50年前に少女漫画をはじめて見た男子小学生は「なにこれ!気持ち悪りぃ〜絵!」と思っていたはずです。

少女漫画は実際の人間に比べると目は異様にでっかく、鼻と口は異常に小さく描かなければなりません。そして当時の男子は綺麗とか美しいとか可愛いと感じる以前に「気持ち悪りぃ〜」と思うのは当然のことでした。

また男子小学生でないにしても、漫画とかイラストなどの印刷物はほとんど見たことのない人に、突然少女漫画のイラストを見せたとすれば、「気持ち悪りぃ〜」以前に、見たことない生命体らしき有機体に恐怖と不気味さを感じるのではないでしょうか。

それほどに少女漫画や萌絵は、実際の人間とはかけ離れた特徴を持ち、我々はたまたまそれを見慣れているから恐怖と不気味さを感じないだけなのでしょう。

似顔絵はデッサンではありません  2016.3.12
そして似顔絵を描くということは、人類特有の口の周りや目の周りの筋肉の動きを描くということになります。

犬や猫には残念ながら人間ほど豊かな表情、つまり顔面に細密な筋肉がないので、物理的な個体差を描くことはできても、表情や性格の個体差によって似顔絵を描くことはできません。

似顔絵とはモデルが人間限定のものなのです。

似顔絵は、そのモデルの口の周りや目の周りの筋肉の動きによる表情と、それによって連想される、心境、心理、性格、思考などを 表現するアーティスティックな手段なのです。モデルをモノとして物理的に捉える「デッサン」ではありません。

笑顔  2016.2.25
ただし「不機嫌な顔」をされた場合には、その顔を見た人も不機嫌になります。このことが「争い」や「戦い」に発展することもあります。従って「不機嫌な顔」や「怒った顔」を見た場合には「争い」や「戦い」に発展する前に、「逃げる」「負けを認めて謝る」「なだめて落ち着かせる」などの手段を取ります。

そしてさらに有効なのが「私は悪意を持っていない」「あなたとは友達です」「あなには攻撃しません」という意思表示の表情です。そう、その表情こそが「笑顔」ということになります。「笑顔」は相手を安心させ、嬉しい気持ちに、幸せな気分にさせる、最も有効で、誰にでもできる、しかもタダでできる方法なのです。

人類にはゴリラやチンパンジーではできない高度なコミュニケーション手段である「笑顔」を、もっと頻繁に、もっと大げさに使っていきましょう。

表情  2016.2.12
霊長類は高度に進化するに従って顔の毛が少なくなる傾向にあります。そして顔の毛が少ない真猿類(比較的進化の進んだ猿)の顔の筋肉は、口の周りや目の周りを中心に、非常に細かないくつもの筋肉が存在しているそうです。このことで表情の変化によるコミュニケーションが可能になったとされています。群れの仲間とうまくやる、つまり社会のなかでうまく生きていくために進化したものが表情の豊かさということのようです。

そして最も進化した霊長類である「人類」では、口の周りや目の周りの筋肉がさらに細かく動作させることが可能となり、より微妙で複雑な表情を作ることにより、高度なコミュニケーションができるようになったとされています。

このことにより、例えお互いに言葉が通じなくても、人類は顔の表情だけである程度のコミュニケーションはできるようになっています。たとえば「困った顔」「不機嫌な顔」などというのは万国共通です。

本質-3  2016.2.1
確証バイアスによる「作られたその人らしさ」の実験がオーストラリアで行われました。6人のプロのカメラマンに、マイクという名の同じ男性を、まったく別のプロフィールで紹介し、「彼らしさ」、「彼の内面」を引き出して撮影してもらうというものでした。

マイクは同じ服装、カメラマンの機材も同じ、違っているのは与えられた情報だけで、それらすべてが偽りであった。

それぞれのカメラマンに知らされたマイクのプロフィールは次の通り。①超能力者、②自力で成功した大金持ち、③元犯罪者、④ライフセーバー、⑤アルコール依存症を克服した人、⑥漁師。

結果は想像通りで、マイクの本質や内面から出る「マイクらしさ」より、確証バイアスによる「作られた彼」をより強化する形となってしまいました。

https://www.youtube.com/watch?v=F-TyPfYMDK8

本質-2  2016.1.23
人は、人間の本質や内面から出る「その人らしさ」より、確証バイアスによる「作られたその人らしさ」をより強化する形になってしまうようです。

人はどんなに公正に人を見ようと思っても、事前に知りえた情報や、自分が見た世界だけでその人を判断してしまいがちです。いったんある決断をおこなってしまうと、その後にどんなに正しい情報を得ようと、それを認めようとはせず、自分を正当化するため有利なように解釈してしまいます。

情報が洪水のように押し寄せてくる昨今、情報の取捨選択は非常に困難になっています。あの人はこういう人間とレッテルを貼ることは、一見情報が整理されたかのように見えますが、そう簡単に分類できるものではないのが人間というものです。既成概念にとらわれず、情報に左右されず、その本質を見極めたいものですが、そのためには相応な時間と観察が必要になってきます。

本質-1  2016.1.13
観光地などで似顔絵を描いている似顔絵屋さん。彼らは初対面の人を10分〜30分ぐらいの短時間で描きます。そのこと自体は素晴らしいテクニックであり職人技とも言えます。

しかし冷静になってよく考えてみましょう。その人(モデル)の内面的な部分、本質的な部分が果たして30分でわかるでしょうか?

普通の人間関係や友達関係でも「最初は無愛想なやつだと思ったけど、本当は非常に気配りができる優しい人だった」とか「最初は頭脳明晰で頭の回転が速く、言ってることに説得力があり、リーダーに相応しい人間かと思っていたが、結局自分が目立ちたいだけだということが最近わかってきた」などというように、その人の本質がわかるまでには長い時間を要するはずです。

従って観光地の似顔絵屋さんは、モデルの顔の表面的な特徴は捉えていますが、決してその人の本質、内面、人となり、の部分は捉えきれないていないのです。似顔絵の醍醐味は、本質、内面、人となり、を表現することなのです。

マスク  2016.1.6
化粧以上に似顔絵の意味がないのがマスクです。さすがに俳優や歌手でマスクをつけたままの人はいませんが、プロレスラーには少なくありません。古くはザ・デストロイヤー、ミル・マスカラス、日本人ではタイガーマスク、獣神サンダー・ライガーなどですね。

ちなみに日本を訪れた外人は日本人のマスク率の高さに驚くそうです。伝染病が流行っているわけでもPM2.5のような深刻な大気汚染があるわけでもないのに。

日本人のマスク好きには単一民族国家特有の考えがあるようです。まず基本的に顔に自信がない→できれば隠したい→目を隠すと見えなくなるので口と鼻は隠そう→インフルエンザの予防と言えば誰も文句は言わない。といったようなアルゴリズムなのでしょう。プリクラや自撮りが流行る以前の年配の人は、今でも写真やビデオが苦手のようで、不意にカメラを向けると顔を覆い隠して逃げていきます。

マスクは明らかに不審で怪しい印象を与えます。しかし日本は治安が良すぎるために多少の怪しいヤツがいても、実際に悪いことはしないであろうという安心感があるのかもしれません。

しかし昔のツッパリ(今でいうヤンキー)の多くはマスクをしていたようです。

化粧  2015.12.25
化粧の濃い顔は描きにくい。というのも描いているのがその人の顔の皮膚ではなく、化粧で覆われた化粧品の物質の表面ということになるからなのです。それでもマツコデラックスや叶姉妹のような普通の濃い化粧であれば何とかなります。どうにもならないのが、化粧というよりか模様とか柄とか絵に近いものです。

例えば歌舞伎の隈取りのような顔になってしまうと、顔を描くというより模様を描いてるということになり、その模様さえ丹念に描けば誰が描いても似ている似顔絵になります。有名人では、デーモン小暮、ダルビッシュ研二、鉄拳、アジャコング、KISSなどです。

仮にデーモン小暮の化粧している顔を描いても「上手いね」と言われることはあっても「似てる〜」と言われることはありません。従ってデーモン小暮の似顔絵を描くという行為にはあまり意味がありません。だからと言って化粧をしてない素顔はほとんど知られていないので、身内以外には似ているかどうかの判断もつきません。従ってこちらもあまり意味がありません。

ドッペルゲンガー  2015.12.18
地球上には自分に似た人は最低でも3人はいると言われています。そしてその自分に似た人を偶然に発見してしまうこともあり、そのことがニュースになったりもしています。

しかし似顔絵という切り口で考えていくと、このドッペルゲンガーは単なる偶然ではないことが解ってきます。例えば自分と目もとがそっくりの人は、恐らく1000人に一人ぐらいはいるでしょう。そして口もとがそっくりな人も1000人に一人ぐらいはいるでしょう。さらに顔の輪郭がそっくりな人というのは100人に一人ぐらいでしょうか。そうなると1000×1000×100=1億、つまり1億人に一人は目もとと口もとと顔の輪郭もそっくりな人がいるということになります。

では鼻は?耳は?眉は?ということになりますが、目と口がその人と判別するための重要なパーツだとすると、鼻や耳は単なる「穴」です。そして目もとと口もとと顔の輪郭が決まれば自然と鼻のかたちは決まってきます。胎内で顔の形が形成されていく過程で自然の流れに従った場合にだいたい同じような形になるのです。これは耳や眉も同じです。そして耳は髪に隠れることもあるので全て露出しているとは限りません。眉は人工的にかたちを整えたり加工することも可能です。

従って目もとと口もとと顔の輪郭もそっくりな人がいたとすると、その人はほぼドッペルゲンガーということができるでしょう。ということは世界中に自分とそっくりな人は3人ではなく(世界の人口が70億とすると)70人ぐらいということになるでしょう。

似顔絵の歴史-10  2015.12.13
同じ似顔絵イラストレータであっても、モデルとなる人間が変われば、そのモデルに応じて表現したい部分、訴えたい部分が変わってきます。もちろん画材や画風も変わってきます。

分かりやすい例を挙げるならば「戦国武将のようなおじさん」を描く場合には筆と墨で一気にアウトラインを描く。「妖精のような女の子」であればパステルと色鉛筆を優しく重ねながら丁寧に描き込んでいく、というようなことです。これが逆の描き方では相応しくないということは容易に想像できるかと思います。

またモデルによって手描きとCGを使い分けたり併用したりすることになります。顔そのものを大幅にデフォルメする場合もあれば、絵全体としてのシチュエーションやストリー性によって描かれる側の個性を表現する場合もあります。このことは本書の作品において、その真相を見ることができるかと思います。

似顔絵の歴史-9  2015.12.3
従ってその「商品としての価値」を維持するために、似顔絵としての技術をブラッシュアップしたり哲学を模索するよりも、作者自身を過剰に宣伝し知名度を高めたほうがビジネスとしては手っ取り早いということになります。もちろんこのアプローチはビジネスとして成功したとしても作品のクウォリティやオリジナリティの向上には貢献しないことになります。

前記したように描く側の思い入れや感じる部分が表現されることは大切ですが、それは描かれる側の個性によって捉え方や感じ方、表現方法が異なるはずです。それを描く側の「ひな形」に無理にはめ込んでしまうのは、似顔絵としての可能性の芽を自ら摘んでしまう行為です。

世界中に存在する実に多種多様でバラエティに富んだ人間。その一人ひとりがそれぞれ固有の特徴やキャラクターを持っています。これを一人の作者によるひとつの描き方で全て網羅することは普通に考えて不可能なはずです。従って「描く側」である似顔絵イラストレータは、常に新しい技法、表現方法、モデルとのコミュニケーションを追求し、よりリアルで且つオリジナリティのある「人間の存在感」を追求していかなければなりません。

このアクティビティを意識し続ける似顔絵イラストレータであれば、作品の中に自ずと質の高い魅力的なオリジナリティが産まれてきます。そしてそのような複数の似顔絵イラストレータが同じモデルを描いた場合には、それぞれが感じた部分、表現しようと思ったポイントは自然と異なり、結果として実にバラエティに富んだ作品群が創造されることでしょう。

似顔絵の歴史-8  2015.11.23
以上、似顔絵の歴史とは、冒頭に書いたように似顔絵というもの自体の定義が不明確であるため、的確な説明をするのは現状では不可能です。またCaricature(風刺画)についてはコミックや新聞などの歴史に沿って調べることで、ある程度の流れを説明することは可能かと思います。平安時代に描かれた「鳥獣戯画」も「風刺画」と言えるかもしれませんし、明治時代の日本人を描いたジョルジュ・ビゴーなども有名です。

しかし似顔絵はあくまでも風刺画とは一線を画しています。技法的に共通する部分は少なくないのですが、コンセプトは明らかに異なります。風刺画は「作者」と「見る人」とのコミュニケーションに重点を置き、似顔絵は「描く人」と「描かれる人」とのコミュニケーションにより創造された成果物を「見る人」へアウトプットするものです。

似顔絵イラストレータの中には、自分の画風や技法を確立し固定した上で、その「ひな形」にモデルを当てはめていくような描き方をする人がいます。これはビジネスプロモーションとして考えると効率的で無駄の少ない方法です。しかしこの方法で描かれた作品は、描かれた側の人としての個性やオリジナリティよりも、描く側の技法やそのパターン化されたプロセスが前面に出てきてしまい、似顔絵としての本来の魅力は半減します。作者の知名度が高く「◯◯さんに描いてもらった!」という事であれば、その作品は「商品としての価値」が高くなりますが、その「◯◯さん」が有名でなければ、その「商品としての価値」は決して高いものではなくなるでしょう。

似顔絵の歴史-7  2015.11.18
キュビズムの概念の1つに「異なった時間を1枚の絵で表現する」というものがあります。人間の顔の正面と側面(横顔)を1枚の絵の中に同居させてしまうという構成方法です。これは鉄道や自動車の登場によってそれまでにない速さで視野が移動することから派生した技法です。そして前記の写真同様に、この時代には絵画の中に「時間」という概念が組み込まれていきました。

シュルレアリズム(超現実主義)の時代になると、より一層似顔絵に相通ずる要素を持った作品が数多く生み出されるようになります。この時代では、作者の印象や感情によってモチーフの捉え方が変わるだけではなく、作者が意図した思考や偏見によって、遊戯心やアイロニー(皮肉)を含めた自由で多彩な表現がされるようになったわけです。

サルバドール・ダリが描いた「ピカソの肖像」を見ても分かるように、本来ダリから見ればピカソは偉大で尊敬できる先輩であるはずですが、この絵からはリスペクト(敬う)の念は感じられません。嫌悪とまではいきませんが「おちょくってる」「からかってる」表現のように思えます。実はこの思考と表現こそが似顔絵の真骨頂とも言える部分なのです。 しかしダリもさすがにピカソに怒られると思ったのでしょうか、自らをベーコンにした自画像も描いています。

似顔絵の歴史-6  2015.11.10
例えば印象派以前の肖像画の多くは、モデルをより忠実にリアルに再現することが要求され、その人物の地位、品格、権力を示すためにモデルは相応の衣装やアクセサリーを身につけていました。その衣装やアクセサリーを含めて忠実に描写することがそのモデルになった人物の権威やステータスを表していたのです。

これが印象派以降になると、モデルの品格や権威を含めたキャラクターを表現するためには、モデルの衣装やアクセサリではなく、画家の感性や表現力に委ねられるようになってきます。同時に皇室や貴族ではなく、一般人がモチーフとなることが多くなり、その中から独創性の高い作品が数多く創出されるようになりました。このことで現在の似顔絵に通ずるエッセンスが少しずつ復活してきたわけです。

その後のキュビズム※要解説文/例:(ピカソなどが登場した20世紀初頭)の時代に写真機が登場し、一瞬にして人間の顔を2次元に焼き付けることができるようになりました。このことで画家たちは必然的に写真との差別化を迫られ、その新しい表現方法と価値観を模索せざるを得なかったわけです。さらに写真機が進化すると、人間の目では捉えることのできなかった1秒の何十分の一の「瞬間」が紙に焼き付けられるようになり、それまではモデルに何日も同じポーズをさせて観察しながら描いていた絵画に対して、色々な意味で新たな展開のためのトリガー(引き金)になったのではないかとも想像します。

似顔絵の歴史-5  2015.11.06
話を歴史に戻します。古代ギリシャやローマ時代になると、多くの職人が職人の技術を用いて作品を制作することで、そこではモデルになった人間の個々の特徴や内面を表現することより、作品としての存在感や完成度が優先されるようになり、似顔絵的な要素は必要とされなくなってきました。

人類が始めて絵を描こうとした、または粘土で人形を作ろうとした、ある一定の限られた期間。そこには似顔絵に通じる感覚やエッセンスがあったはずです。しかしその後に登場した職人たちにより、似顔絵的な感性は徐々に忘れ去られ、後の印象派が現れるまでの長い間、リアリズムが台頭する中で似顔絵は埋没したままとなってしまいました。

ではなぜ印象派なのでしょうか。それは印象派によって、大雑把に言えばリアリズムから次の展開が切り開かれたからです。もちろん、そのことが直接的に似顔絵に連動しているわけではありませんが、少なくとも似顔絵を描く場合に必要なエッセンスが改めて見直される方向にあったのです。もっと雑駁に言えば、肖像画の主流が職人の時代からアーティストの時代になったということでしょう。技法やクウォリティの高さ、細密な描写を訴求する時代から、人間の内面や一瞬の表情を優先するようになったとも言えます。

似顔絵の歴史-4  2015.11.03
それは、今まで似顔絵は描いた経験がなくて絵が上手い人は、似顔絵イラストレータに不向きであるということです。絵が上手いということはスキルが高いということになります。スキルが高いということは、そのスキルを習得するために多くの時間を費やし、多くの作品を描いてきたということになります。つまり職人なのです。職人は自分が身につけた技を信じプライドを持っています。だから簡単にはその技を修正しようとしないし、すぐには修正できないものなのです。

具体的な例を挙げると、アニメキャラのイラストがプロ並みに上手い学生がいたとします。しかしその学生が描く似顔絵は、どうしてもアニメ風の目、口、顔立ちになってしまいます。自分の中で目、口、顔のテンプレートが確立されていて、そのテンプレートから脱却できなくなるためです。所謂アニメ職人になってしまっているのです。

同様にデッサンの上手い学生は、見た物を忠実に再現する技には長けているものの、モチーフの中の特徴的な部分を見いだし誇張して描く、または目に見えない内面的な部分を表現するということが苦手であったりします。こちらもデッサン職人、描写職人ということになり、その職人技から逸脱することを自然と拒むようになってしまっているのです。

似顔絵の歴史-3  2015.10.30
そしてその技法が伝承されながら数を作っていくうちに、さらに制作するために都合の良い形状に変化していきます。その過程は効率良くリスクの少ない形状に移行していくと同時に、「特定の個人の顔」ではなく万人が見てそれと分かる「典型的人間の顔」へと変化していきます。ここでは抽象的なフォルムを創造していくセンス、象徴的な形体に簡略化していくロジックなども加味されていったように思われます。これは現在のインダストリアルデザインの変遷に近いものがあります。

その後、絵画も彫刻もその素材や加工技術が進化し、作り手のスキルも向上してくると、より人間の顔に近い作品が産み出されるようになってきます。しかしこのことで似顔絵に通じるエッセンスは段々と希薄になり、似顔絵に近い作品が生まれる可能性も徐々に低くなってしまったようです。

その理由を説明する前に、似顔絵イラストレータを育成するための重要なポイントを紹介しておきます。

似顔絵の歴史-2  2015.10.26
そしてその簡略化やデフォルメの度合いや表現方法は、作者の思考や感情、洞察力によって大きく左右されるはずです。実はこの思考や感情、洞察力が似顔絵を描く為の、また似顔絵というものの存在意義を確かめるための、極めて重要なファクターになります。つまり古代における人間をモチーフにした原始的な絵画や彫塑は、その誕生と同時に似顔絵としての要素を含んでいたということになります。

古代オリエントやマヤ文明、古代メキシコなどの彫像、日本の縄文時代、弥生時代の土偶を見ると、実に個性的な顔であったり、ひょうきんな表情のものがあります。恐らく作者は誰かの顔を見ながら、または思い出しながら一生懸命似せようとして作ったのでしょう。ところが素材の再現性には限界があり、作者のスキルも未熟だったことから、だんだんと最初のイメージとは異なるものになっていき、ある時点からは「似せる」という目的を忘れ、または方向転換して、その時々での条件の範囲で製作可能な作品へと変化していったのではないかと想像します。

似顔絵の歴史-1  2015.10.22
世界の歴史の中で、似顔絵がいつどこで発祥したのかというと、これは考え方次第では「人類が人間をモチーフにして絵を描いた最初の瞬間」と言うことになります。

見たものをそのまま平面上に描きたいという欲求は古代より人類共通のものでもあったようです。時にその目的は、仲間に獲物の場所を知らせたり、身の周りに迫った危険を知らせるという生存に関わるものから、神を崇めたり瞑想することの道具として、また描くことでの達成感や仲間から崇拝されることなどが想像できます。

もちろん古代においては、透視図法も遠近法も確立しておらず、画材や顔料も原始的なものだったはずで、見た物をそのまま描くというより、そのモチーフの特徴的な部分をアウトラインだけで表現するというところから絵というものが始まったようです。そしてこの行為は、ある意味、効率の良い簡略化であり高度なデフォルメとも言えます。

子どもを描くのは難しい  2015.10.17
①シワが少ない。
生まれてから時間が経過していないので劣化が少なく、つるんつるんでシワが少ないので目鼻口といったメインパーツ以外に陰影をつける箇所がありません。また大人であれば物理的劣化の他に、経験や歴史が顔に刻まれていくのですが、そういった刻みもありません。その他、たるみやシミも無いので個性が表現しづらいのです。

②成長してしまう。
せっかく描いた似顔絵もすぐに過去のものになってしまいリアルタイムで似ている似顔絵として使えなくなります。すぐに「過去の思い出」になってしまいます。

③「素」で生きている。
大人は社会に適応するために「素」の部分を隠して我慢しながらネコを被って生きています。その化けの皮を剥がして「おまえはこうだ!」という「素」の部分を描くのが似顔絵の醍醐味です。子どもは、そもそも隠している部分の無いので「おまえはこうだ!」という似顔絵が描けません。

美男美女は所謂標準形  2015.10.16
とはいえ美男美女の基準は多くの先進国においては所謂「標準形」であるようです。標準形に近ければ近いほど、整った顔立ち、容姿端麗な顔ということになります。逆に言えば「無個性」、「没個性」ということでもあります。似顔絵を描くという視点から見れば最も「描きづらい」のが全く個性の無い顔であり、それはつまり「整った顔」であり「容姿端麗」な顔なのです。

かの山藤章二氏が「オレは美人は描けない」と言ったとか言わないとか。もし本当に言ったとしたら、似顔絵師としては最低でしょう。どんなに下手くそな似顔絵師でも現場で描いている似顔絵師はモデルを選ぶことはできません。容姿端麗な美男美女が似顔絵を描いてもらいに来ることだってあります。そして美男美女というのは個性的なブサイクに比べれば10倍も100倍も難しいのです。

無個性な標準形の顔の中から「個性」と「特徴」を何とかして探し出して描かなければいけません。そのためには深い洞察力と機転と編集力が必要です。個性的な顔の政治家や落語家ばかりを描いたところで「そんなもん、誰でも描ける」ということです。本当に実力のある似顔絵師はジャニーズもAKBも描き分けることができるのです。

美男美女の基準  2015.10.11
美男美女の基準には個人差があります。育った環境や住んでる地域によっても異なってきます。例えば母親が熱烈な、ある映画俳優のファンで、その俳優がTVに出るたびに歓声を上げていたとすれば、その母親の子供は、その俳優が「かっこいい」「イケメンである」というふうに自然と刷り込まれていきます。

南国のある島では、女性は太っているほうが美しいとされていて、そのことがその島民の常識となり、島民は普通に「女性は太っているほうが美しい」と思っています。

エチオピア先住民族スーリー族は下唇に木のコースターのようなものを入れて、そのコースターの面積が広ければ広いほど美人とされています。

ミャンマーやタイの山間部に居住している首長族は、村落内の選ばれた女性が首に金色の真鍮リングを纏っていて「首が長く見えるほど美しい」とされています。

黒人を描く-2  2015.10.10
ではどうしたらいいのでしょうか?かなり高度なテクニックが必要になりますが、まずは肌の色は無視して、立体として陰影だけで捉えるということになります。色というものは、その物自体が最初から保有しているものではなく、光の反射によって見えてくるものです。ということを理解しておけば何とかなるでしょう。

つまり肌の色が真っ白な人でも光の少ないところ(暗闇など)では決して白くは見えないのです。光が少ないと陰影もなかなか見えず、立体を捉えることが難しくなります。そんな中で絵を描かなければいけない場合には、作者は目をこらして少ない光を懸命にすくい上げて立体を表現しようとします。

黒人を描くときにも同じことをすればいいのです。肌の色は一旦置いておいて、立体を捉えることに注力する。そうすればきっと上手くいくでしょう。デッサンの基礎を勉強するための石膏像は、できるだけ立体が解りやすいように「白」で出来ています。その石膏像が「黒」であっても、難易度は上がりますが、描けなくなるわけではありません。

黒人を描く-1  2015.10.09
黒人という言葉自体が差別的に捉えられることがあります。しかし似顔絵の場合、肌の色が黒い人を白く描くわけにはいきません。特に西アフリカの人の中には本当に真っ黒な肌の色をした人もいます。そこを強調してより黒く描くのか、または差別に考慮して黒さを加減して描くのかは悩ましいところです。前者の場合、描かれた人が激怒したという例も実際にあるようです。また肌の色が黒い場合には、顔の中の立体感が表現しづらくなってきます。白目と歯の白さと肌の黒さとのコントラストが際立ってくるので、陰影(明度の変化)で表現する目鼻、頬、額、顎などの形の個々の特徴が、白目と歯の白さと肌の黒さとのコントラストに負けて見えなくなってきます。

標準を知らなければいけない  2015.10.08
日本人が突然街で外人(アングロサクソン・白人)に出会ったとします。そしてそのその外人は彫りが深く、鼻が高く、顔の幅が狭いというところが目がいきます。しかしその外人の鼻は、白人の中でも高い方なのか、白人にしては低いのかは全く見当がつきません。彫りの深さや顔の幅についても同じようにわかりません。ところが似顔絵を描こうとした場合には第一印象の鼻の高さに目がいってしまい、その外人の個性が「鼻が高いこと」と思い込んで、鼻の高さを強調した絵を描いてしまいます。

これはでは似顔絵にはなりません。「似アングロサクソン絵」なってしまいます。「アングロサクソンの標準」を知らなければ、その白人の個性は表現できないということになります。同じように生まれたての赤ちゃんを描く場合も、生まれたての赤ん坊の特徴の方が目立ってしまい、その赤ちゃんの個性がどこなのかは、あまりわからないまま描いている場合の方が多いようです。ここでも「産まれたての赤ん坊の標準」を知らなければ、その赤ちゃんの個性は表現できない、ということが言えます。

しかし幸いにして「赤ちゃん」の場合は、とにかく可愛く描いておけば、似ていようがいまいが「か〜わいい♡」と言って、両親は満足して帰っていきます。

多民族国家での難しさ  2015.10.07
アメリカやヨーロッパなどの多民族国家においては、まずは人種が忠実に再現されているかということが優先されます。自分とは異なった人種に描かれることは、どんなに本人に似ていてもNGなのです。

実際の体験談になりますが、食品のパッケージに使うイラストでシルクハットをかぶったイタリア人をモデルにして描いたところ「これではユダヤ人みたいだ!」と言って、そのイタリア人は非常に憤慨しました。似ているかどうか以前の問題だったのです。日本人から見れば、ユダヤ人のどこが悪いの?という感じですが、彼にとっては大きな問題だったようです。

これは単一民族国家の日本においては感覚的に理解しがたいことでもありますが、逆に言えば、単一民族であり、髪や目の色が同じ中で個々を判別する表現が似顔絵ということにもなるのでしょう。

似顔絵とは?  2015.10.01
似顔絵という単語は英語ではPortrait(ポートレイト)、又はCaricature(カリカチュア)と訳されことが多いようです。Portraitは肖像画、Caricatureは風刺画という意味で、それぞれ似顔絵とはイコールではありません。似顔絵は日本のような単一民族国家独特の文化とも言えます。例えばアメリカ人の似顔絵を描く場合に、描かれた人間が自分に似ているかどうか判断するポイントは、肌の色、目の色、髪の色であり、表情や内面的な描写はあまり気にせず、基本的に外見的なリアリティを求めているようです。

このことはCaricature(風刺画)の描き方を見てもわかりますが、デフォルメはされていても、髪や目の色、ヘアスタイルなどは基本的にモデルに忠実です。

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